2010年11月9日火曜日

日本のはじまり-飛鳥時代-

(教科書 『日本のはじまり』は和出版のホームページおよび和出版にて販売しています)
Ⅵ 飛鳥時代


飛鳥時代とは6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて奈良県の(  )に宮や都が置かれていた時代。



一部、古墳時代と重なっており、飛鳥時代に造られた墳墓を、終末期古墳と呼ぶ。

飛鳥時代と次の奈良時代は、天皇を中心とする(     家)が成立した時期、

・律令という法律を制定して法治国家の形成する

・中央・地方の官僚組織の整備と身分制度の確立する

・政治・経済の中心となる首都を建設する

・外敵や国内の反乱に備え、軍団という常備軍を設置し、軍事力の組織化する

・交通網・情報網の形成や速やかな派兵のため、道路の整備する

ということを行なった。



これらの財源として「     」と「租庸調」という租税制度を整備し、貨幣の発行を行なった。

さらに、宗教の力を借りて国家の統一を図る。



古墳時代は古墳祭祀という呪術的宗教をもってヤマト政権を統一していたが、飛鳥・奈良時代には、より高度に理論化された(  )が、国家の統一原理として選ばれた。



このような国家システムのモデルとなったのは、先進国の中国と朝鮮半島。



朝鮮半島からの渡来人に大きな影響を受け、とくに7世紀初めから、日本が中国に派遣した遣隋使・遣唐使の持ち帰った知識や情報が、統一国家形成の基礎。

(理由)

朝鮮半島での緊迫した状況に関与していた日本は、早急に中央集権国家を形成し、軍事力を整備して国家体制を整えなければならなかった。



飛鳥時代の様子は、720年に完成した正史の『    』に書かれている。

また、断片的に残る文献資料にも見ることができる。

考古学資料も増え、木簡や漆紙文書などの文字資料だけでなく、首都や役所、寺院、庭園、祭祀遺跡、生産遺跡、墳墓、集落などの遺跡の調査や、そこから出土した遺物の研究によっても知ることができる。



1,崇仏派vs廃仏派

a蘇我氏と物部氏

仏教は、6世紀頃に伝来。



鞍部として使えた司馬達等が、私的に信仰しており、継体16年(522)に「司馬達等は中国からきて仏教を祭った。人々はこれを見て中国の神だと怪しがった」とある。

正式に公伝したのは、百済の聖明王が教巻と仏像を欽明に伝えた(   )年。



外来の宗教である、仏教が伝来すると、それに対する反発が起こった。

552年には、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿が反目。



尾輿は、我が国固有の信仰を乱すとして、天然痘が流行ったのをきっかけに、稲目の仏像を川に捨てる事件をおこす。



朝鮮半島では、554年、聖明王が新羅との戦いで戦死し、562年には任那が新羅に滅ぼされる。

571年に、欽明が任那の再建を遺言して亡くなり、次の敏達が即位すると、大臣に稲目の子の蘇我馬子、大連に尾輿の子の物部守屋がつく。



敏達は欽明の遺言を受けて、任那問題に関与し、新羅に「    」を認めさせ、任那の四邑に対する収調権を確保。



584年、鹿深臣(かぶかのおみ)が、百済から持ち帰った弥勒菩薩石仏を安置するため、蘇我馬子は、仏殿を造り、仏舎利を納めた塔を建て、司馬達等の娘らを出家させて尼僧とし、法要を営む。



これによって、それまで個人的に信仰していた草堂仏教から寺院を建て、そこで僧たちが修行する、(    )へと移行。

↓しかし、

折しも流行していた疫病を、物部守屋は、仏教を崇拝したためと崇仏のせいにした。

敏達もこれに同調し、廃仏を命じる。

↓しかし、

天然痘の流行は収まらず、

馬子は、仏教をそまつにしたために疫病がおさまらないとして、新たに仏殿を建て直すことになる。

↓ 結局、

敏達は疫病で亡くなり、次に即位した用明もすぐに亡くなると、587年に大王の継承問題に崇仏・廃仏論が絡んで、政権争いが起こる。

廃仏論の守屋は穴穂部皇子をたて、崇仏論の馬子は泊瀬部皇子をたてて争う



守屋は、自らも木にのぼって弓を放つが、敵の矢にあたって死亡。

この戦に馬子側として加担していた厩戸皇子(聖徳太子)は、その勝利を祝って(    )(現大阪府大阪市)を造営。

なお、このとき殺された穴穂部皇子と宅部皇子は藤ノ木古墳に葬られた被葬者ではないかと考えられている。

b藤ノ木古墳

奈良県生駒郡斑鳩町にある直径48メートルの円墳。

6世紀第4四半期に築造されたもので、横穴式石室に家形石棺が納められていた。

石棺の周りからは、動物などの透かし彫りを施した、金銅製鞍金具などの馬具類や武器類、土師器、須恵器などが出土。石棺の内部には男性2人の遺体とともに、金銅製冠・沓などの金銅製装身具、大刀、剣、鏡類、玉類などが納められていた。冠や馬具など大陸の影響を受けた副葬品とともに、伝統的な鏡や刀剣を副葬している様子から、国際性と伝統を併せ持つ人物の様子が浮かび上がる。このことから、埋葬された、2人の男性は、穴穂部皇子と宅部皇子であるという説が有力。



c崇峻の政治

泊瀬部皇子は即位して崇峻となり、蘇我馬子は、大王の母方の親類である外戚として、また大臣として斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵の管理を行ない、財政を掌握。

馬子は、品部を整備して政治機構の充実をはかる。

地方にも屯倉、名代を増設して地方の支配を強化。

さらに仏教の興隆を図るとともに、新羅への遠征も計画。

2,推古の政治と聖徳太子

a推古の即位

崇峻は、政治の実権を握っていた馬子を、しだいに疎ましく思うようになる。

592年にイノシシを献上されたとき、崇峻が、「自分が憎いと思っているものをこのように斬りたい」と言う。馬子は小男で太っており、イノシシに似ていた。

このことで馬子は警戒し、東国の調の貢があると偽わり、儀場で東漢直駒に崇峻を暗殺させる。

大王の暗殺により朝廷は動揺しましたが、敏達の后だった豊御食炊屋姫が推古として即位。



b三者政治の確立

推古は即位後まもなく、厩戸皇子を摂政として任命し、実権を握っていた大臣の馬子の政務を総監させ、ここに推古を中心とした厩戸皇子と馬子の(    )が成立。

c豊浦宮と小墾田宮

推古が即位した飛鳥豊浦宮は、蘇我稲目の私邸だったとされている。



宮殿としては不都合だったらしく、小墾田宮を造営して、603年に移る。

豊浦宮は、現在の向原寺付近で、部分的な発掘調査によって柱の跡などが見つかっている。

小墾田宮は、1987年に、雷丘東方遺跡で「小治田」と墨書された土器が発見されたことから、このあたりだろうと推定されている。

推古は、この宮で、後述する十七条の憲法や冠位十二階の制定などの重要政策を行なった。



d三宝興隆

594年、三宝興隆の詔がくだされ、朝廷の保護のもと、仏教が広められることになった。

三宝とは(     )で仏教のこと。

この詔によって、氏族たちは壮大な氏寺を造りはじめた。

その始まりは、588年に蘇我氏の発願によって造営を始められた飛鳥寺。

e飛鳥寺と法隆寺

飛鳥寺は、百済から来た寺工・轤盤・瓦博士が造営にたずさわり、593年には、塔の心礎に、仏舎利を納めた金銅製の舎利容器とともに、挂甲・大刀・馬具・金銅製耳飾り・勾玉・管玉など、6世紀の古墳の副葬品と共通したものが納められていた。

伽藍の配置は、塔を中心に北・東・西の三カ所に金堂を配した高句麗の清岩里廃寺と共通し、金堂は百済の定林寺とおなじ二重基壇、瓦も百済の瓦と同じ模様をもつことから、設計図は高句麗のものを使い、『日本書紀』にあるように百済の技術者によって建てられたことがわかる。

中金堂には、司馬達等の孫の鞍作止利が作った金銅仏を安置し、工芸品が奉納された。



法隆寺は、厩戸皇子によって発願された寺。ながらく、創建当時の建物が、火災にあったかどうかで論争があった。

『日本書紀』には、670年の深夜に法隆寺が火災に遭って、全ての建物が焼け落ちたことが記されているが、この記載が正しいかどうかで争われた。



1939年に発掘調査がおこなわれ、焼けた瓦や伽藍の跡が発見された。この焼失した(    )が創建当時の法隆寺であり、塔と金堂が直線上に並ぶ四天王寺式であったことが明確になった。

したがって、現在の法隆寺は再建されたものであることがわかった。

↓しかし、

こんどは、再建されたはずの西院伽藍が、若草伽藍焼失以前に建設が始められた可能性が指摘されており、なぜ若草伽藍がありながら、西院伽藍が造られたのか、また新たな疑問がなげかけられている。

↓いずれにしても、

現在の法隆寺が現存する最古の木造建築であることには変わりない。

法隆寺には久世観音像や釈迦三尊像・百済観音像などの仏像や玉虫厨子・獅子狩文錦が残されいる。

そのほか厩戸皇子が母の穴穂部間人皇后の御所を寺とした中宮寺には、半跏思惟像・天寿国繍帳などがある。



各寺の造営は、当時の大陸の進んだ技術や芸術・学問の集大成。

日本は仏教を受け入れ、寺を造営することで大陸の最新の技術や文化を導入した。



コラム 文化財保護法

1949年(昭和24年)1月26日の早朝、解体修理中の法隆寺金堂から火が出ました。原因については、壁画模写の画家が使っていた電気座布団から出火したという説や、模写に使用した蛍光灯用の電熱器を火元とする説、放火説などがあり、真相は不明です。解体修理中だったため、安置されていた釈迦三尊像などの仏像は移動していて無事でしたが、建物と壁画に大きな損害を受けました。この金堂焼損は、歴史的な事件として、日本の文化財保護に係わるわたしたちの戒めとなっています。この事件をきっかけに文化財保護法が制定され、1月26日を文化財防火デーとして、日本各地の社寺や歴史的建造物などで消火訓練が行われています。

コラム 伽藍配置

寺院の伽藍配置にはいくつかのパターンがあります。建物の配置は、寺院造営者が何を重要視して造営するかによりました。仏舎利を納める塔を大切に考える寺であれば塔を中心に、本尊を納める金堂を大切にした寺であれば金堂中心に、両方を重要視すれば両方を中心とするお寺が造営されたのです。



f冠位十二階と十七条の憲法

推古は、603年に冠位十二階を制定し、さらに604年に十七条の憲法を発布。

この二つは、600年に送った第1回の遣隋使が、隋の文帝に、国家としての原始性を指摘され、むなしく帰ってきたという教訓から生まれた。

冠位十二階と十七条の憲法は、日本が文明国として、隋と交渉するための最低限度の政治体制だった。

・冠位十二階

冠位十二階は、百済または高句麗から学んだもので、個人の才能や功績、忠誠に応じて、登用する人材登用制度。

功績によって昇進もありったが、その人一代限りのもの。

ただし、大王の御前で大臣とともに国政に参加する、マヘツキミ層以下の中央豪族に適用されたもので、大王と皇族、大臣の蘇我氏、地方豪族には適用されなかった。

徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分け、紫・青・赤・黄・白・黒の色の冠で区別した。

位階の違いは衣服の色にもおよび、身分を服装の色の違いによって表すことによって、大王を中心とした身分の確定と官僚制の整備を行なおうとした。



・十七条の憲法

十七条の憲法は、仏教・儒教・法家の思想に影響を受けて作成されており、国家の要素を君・臣・民の三つに分け、官人としての臣にむけて、和をもって貴ぶべきこと、仏・法・僧を敬うこと、大王に服従すること、訴訟を公平に裁くことなど政治的な服務規程や道徳的訓戒を伝えたもの。

十七条の憲法の内容は、大王を中心とした中央集権的国家体制の樹立を志向したもので、前方後円墳体制といわれる族制的国家から、(     )へ移行する過渡的な様相をよく表している。

↓しかし、

現実は族制的な色合いが強く、非官僚的・臨時的な政治体制で、大王を中心として官僚が執務を行なう小墾田宮が造営された後も、政務は依然として大王や王族、有力豪族の宅で行われる家政的なものだった。

地方支配も、国造制は展開したものの、在地豪族による支配に依存し、局地的に支配の手を伸ばしたに過ぎない。



g蘇我氏の台頭と新たな火種

十七条の憲法の翌年、厩戸皇子は住まいを斑鳩に移し、太子道を毎日飛鳥へ通ったといわれている。

片道20キロを、毎日4時間近くかけて通うのは不可能



時折、飛鳥へ出向く程度だったと考えられている。

斑鳩へ移転後は、遣隋使の派遣を行なったのみで、政治的な活動から身を引き、法隆寺の建立や『三経義疏』の著述など、仏教の普及に力を注ぐ。

一説には、蘇我氏との不和が指摘されていますが、斑鳩の地に理想の社会を求めたという意見もある。



一方、大臣の地位は馬子から蝦夷、入鹿と蘇我氏宗家で受け継がれ、マヘツキミ層の三分の一を蘇我氏の同族で占めるようになって勢力を伸ばした。

しかしこれは、蘇我氏内部の争いや非蘇我氏系の王族の形成など、政争の火種を生むことにもなった。



3,推古朝の外交政策

a遣隋使

欽明が任那の再建を遺言していたため、推古朝は、外交政策的には任那再建という命題を背負っていた。

↓したがって、

百済との関係強化はもちろん、本来敵国だった高句麗とも同盟関係を結んで、新羅包囲網を完成させた。

そして600年に新羅を攻め、朝貢を要求し、いったんは旧任那の一部を再確保したようだが、倭が軍を引くと、また新羅が侵略した。



602年に、来目皇子を、撃新羅将軍に任命して出陣したが、皇子は筑紫で亡くなる。

翌年には当麻皇子を征新羅将軍するが、播磨に来たところで、妻が亡くなって征伐をあきらめてしまう。

↓これ以後、

対新羅軍事行動を止めて、大国の隋との国交を開く。

新羅は、594年に、隋から冊封を受けており、新羅を攻めると隋の出兵を招く恐れが出てきたため、隋との国交によって、対新羅情勢の打開を図ろうとした。

607年、小野妹子ら第二回遣隋使が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という文書の国書を持って、隋の煬帝に謁見。

煬帝は倭国の大王が、天子と称したことに激怒。

天子と称したのは、冊封を受けずに、独立した君主であることを主張することによって、すでに隋から冊封を受けている、朝鮮半島の諸国に対し、優位性を保とうとしたものと思われている。



煬帝は激怒したにもかかわらず、遣隋使の帰国に際し、裴世清を国使として遣わす。



高句麗の動向に不信感を抱いていた隋は、倭国と高句麗が結びつくことを懸念して国使を遣わした。

推古に裴世清が謁見する儀式には、蘇我馬子一族は姿を見せなかった。



朝鮮半島の国々との国交に力をいれていた馬子は、隋と国交を開くことを快く思っていなかった。

ここにも、遣隋使を遣わした厩戸皇子の政策との違いからくる不和が見て取れる。



b天皇のはじまり

608年、裴世清の帰国に際し、推古は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」という書き出しの国書を送った。

『日本書紀』が正しく伝えているとすれば、天皇という称号を外交の文書として用いた初めてのもの。

↓このとき、

8人の留学生や留学僧が従い、その中の恵日・僧旻・高向玄理・南淵請安などは、後に先進知識をもたらすとともに、「大化の改新」の理論的指導者となった。



ちなみに天皇という称号の初現については、推古28(620)年の国史の名称を「天皇紀」としていることなどから、推古朝に始まったという説が有力。↓その他に、

野中寺弥勒像台座銘天智五(666)年という説

持統3(689)年施行浄御原令で決まったという説

飛鳥池遺跡の出土品から天武の頃という説などがある。



遣隋使は第4回の犬上御田鍬らの派遣を最後に終了。



4,大化の改新と天智

618年、中国では煬帝が殺され、唐の李淵が帝位に即。

日本では、622年に厩戸皇子、626年には馬子、628年には推古も亡くなる。



鞍作止利によって作られた、法隆寺釈迦三尊像の背面には、厩戸皇子の病気治癒の祈願と、もしそれがかなわなければ極楽浄土に生まれ変わるようにとの願いをこめて、皇子の等身大の像を作ったことが書かれている。

また、妃の橘大郎女の願いによって、天寿国に生まれ変わった厩戸皇子を忍んで、天寿国繍帳が作られた。

皇子の4年後に他界した馬子は、巨石で造られた石室で有名な石舞台古墳に葬られたという説が有力。

コラム石舞台

明日香村島庄にある石舞台古墳は、一辺51メートルの墳丘をもつ方形墳でしたが、盛り土はなくなって、古くから巨石で造られた石室が露出していました。石室は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルの横穴式石室で、長さ約11メートル、幅2.5メートルの羨道がついています。『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に、「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とあるので、これが、蘇我馬子の墓だろうといわれています。



推古は皇太子を決めることなく亡くなり、厩戸の子の山背大兄王と敏達の子の田村皇子が皇位継承者候補。



629年、大臣の蘇我蝦夷が加担した田村皇子が舒明として即位し、翌年、飛鳥岡本宮に遷都。

また、再渡航となる犬上御田鍬と恵日を、第1回遣唐使として唐に遣わす。



唐は、均田制という、田畑を国有とし、国民に貸し出す制度と、

租庸調制という税制に基づく、律令国家体制を整えていた。



強大な中央集権的帝国を形成した。

↓そして、

7世紀の半ばに、高句麗に向けて遠征を始めると、東アジア情勢は一挙に緊迫化。



各国は、国防の必要性もあって、中央集権的な国家体制の形成を急いだ。



a乙巳の変

蘇我蝦夷と、その子で大臣だった入鹿も、蘇我氏を中心とした集権化を目指し、643年、山背大兄王を法隆寺で自殺に追い込む。



このような蘇我氏中心の集権化に対し、王族や豪族のなかに反感が生まれた

645年に中大兄皇子や、蘇我氏では傍系の蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足たちが、天皇家を中心とした集権化を目指して、「  の変」を起こす。



飛鳥板蓋宮で入鹿を殺害、蝦夷を甘橿丘の屋敷で自殺させ、蘇我氏の本家を滅ぼした。



2005年、甘樫丘(甘橿丘)の東麓の発掘が行われ、焼けた建物跡や土器が出土。ここが蘇我氏の邸宅跡とみられている。



b孝徳

これによって、舒明の皇妃で、即位していた皇極は退位



「乙巳の変」の首謀者の一人と目される皇極の息子、軽皇子が即位し、孝徳となった。

↓このとき

大臣・大連を廃止し、代わりに政治を司る太政官をつくり、政務を統括する左大臣・右大臣などの官職を置き、中大兄皇子は皇太子、阿部内麻呂は左大臣、石川麻呂は右大臣、鎌足は内臣となり、僧旻と高向玄理が国博士となって、国政を行なうことになった。



c改新の詔

646年、孝徳は、飛鳥から難波長柄豊崎宮に都を移して、改新の詔を発布。

詔の内容

1,それまでの私有地(田荘)や私有民(部民)を廃して、すべて天皇のものとする公地公民制を行ない、豪族には(  )を与える。

2,地方行政区画を改め評(のちに郡となる)をおき、地方官を任命し、軍事、交通制度を整備。

3,戸籍、計帳を作成し(     )を行なう。

4,租庸調などの統一的な税制を施行。

これらの詔によって、天皇中心の中央集権的国家体制の成立を目指した。



d薄葬令と終末期古墳

詔と同じ年、薄葬令が出される。

薄葬令は、身分によって造ることのできる陵墓を規定し、殉死の禁止などを定めたもので、墳墓は権力の象徴としてではなく、大王を中心に体系化された身分制度の表象という意味を持つようになった。

見瀬丸山古墳より後、7世紀前半までは、大王は有力豪族と同じ、方墳を築造。

先述の石舞台古墳や藤ノ木古墳もこの時期に築造。



7世紀中葉、薄葬令から律令国家の成立までの間

大王は有力豪族からも隔絶した存在として、独自の墳形を模索し、(   )の墳墓を築造するようになった。

畿内の有力豪族は、切石造りの横穴式石室をもつ、方墳や円墳を造る。



もっとも古い八角形墳は奈良県段ノ塚古墳(舒明陵)。



後述する672年の壬申の乱による大王権力の強化で、

一般の豪族層の古墳築造は規制され、



7世紀の第3四半期以降は、大王とその一族、古代国家の頂点に立った一部の豪族が、高松塚古墳のような特殊な古墳を造ることになった。



律令国家の成立と供に、八角形墳は築造されなくなり、8世紀初めの文武陵と考えられる、奈良県中尾山古墳が最後。

和田晴吾2005「j前方後円墳の終演と古墳の終末」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

都出比呂志1998「前方後円墳の終焉」『NHK人間大学 古代国家の胎動』日本放送出版協会

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

白石太一郎2001「古墳時代から飛鳥時代へ」『考古学と歴史』放送大学教育振興会



e大化の改新

この一連の改革を、その年号にちなんで「     」と呼ぶ。

「大化の改新」は、遣唐使が伝えた儒教や、中央集権的な体制や官僚制を、日本風に変更しながら受容したもの。



外交では、高向玄理を新羅へ派遣して「任那の調」を廃止し、朝鮮半島の国々との外交関係を改善。

唐へは遣唐使を派遣し、法制度や文化の導入に努めた。



また、647年に渟足柵(新潟市)、648年に磐舟柵(村上市)を設け、蝦夷に備えて、東北経営にも乗り出す。



f石川麻呂と山田寺

このような急速な改新は、旧勢力の反感を買った。



647年に冠位を十三階に、さらに649年には十九階にした。→これは役所や役人の人数が増えたことに対応する処置。

↓このとき

同時に皇族を除いた全ての役人に、冠位を与えることにした。

↓これには、

それまで特権を与えられていたマヘツキミ層の反対は必至。

左大臣阿部内麻呂と右大臣蘇我倉山田石川麻呂は、古い冠をかぶり、新しい冠をかぶろうとはしなかった。

大化の改新への反対を唱える旧勢力や地方豪族がいたことを物語っている。



649年に左大臣阿部内麻呂が死去すると、右大臣蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、山田寺で首をつって自殺。



山田寺は、1983年に、東面回廊の連子窓などがほぼ当時のままで発掘された。

また、興福寺に残る仏頭も山田寺のものだったことは有名。



g孝徳と中大兄皇子の不和

孝徳の意向を聞かず、中大兄皇子が国政を行なったことで、二人の間は不和。



653年に中大兄皇子は、都を再び飛鳥へ移そうと、朝廷のほとんどの役人を連れて戻ってしまい、孝徳は難波の都(長柄豊崎宮)で孤独のうちに憤死。



h斉明

翌年に、中大兄皇子の母の皇極が飛鳥板蓋宮で重祚して斉明となり、皇子は、引き続き皇太子として政治の実権を握る。

斉明朝では、田身嶺山腹に石垣を造らせたり、天香久山から石上山まで運河を掘らせたりなどの土木工事が進められた。



657年には須弥山の像を造り、盂蘭盆会が行われた。

2000年に調査された奈良県明日香村酒船石遺跡からは、小判形の水槽と亀石、全体を囲む石敷や石段などが出土し、国家的な祭祀が執り行われていたことを物語っている。

酒船石遺跡ではそのほかに、石垣などが見つかっており、田身嶺山腹の石垣の記載と一致している。

これらの土木工事のため、きびしい税の取り立てや、労働にかり出された民の不満。



658年、これらの失政を理由に、蘇我赤兄は孝徳の子の有間皇子に反乱を持ちかける。

↓しかし、

その夜、有間皇子は謀反の罪で捕らえられ殺されてしまう。

中大兄皇子は藤原赤兄の策略に乗じて有間皇子を殺させ、皇位継承権を確実なものとする。



同じ年、阿部比羅夫を蝦夷へ、さらに粛慎へと遠征。



有間皇子の母の実家は阿倍氏で、阿部比羅夫と関係があったらしく、有間皇子の事件を知らせないために蝦夷征伐へ送り出したという説もある。

コラム 酒船石遺跡

酒船石のある丘一体の遺跡を酒船石遺跡と呼びます。酒船石は、一部が欠けていますが、長さ約5.5メートル、幅約2.3メートル、厚さ約1メートルの花崗岩の石造物です。小高い丘の上にあることが以前から知られており、上面に皿状のくぼみ数個と、それを結ぶ溝が刻まれています。用途は不明ですが、酒や薬を造る道具などといわれていました。近くに水を引いたと見られる土管や、石の樋も見つかっていることから、庭園の施設との説もありました。

1992年に、酒船石のある丘陵の北側斜面で石垣が発見されました。『日本書紀』斉明二年(656)の条に記されている「宮の東の山に石を累ねて垣とす」という記載と一致しているようです。この記載の「宮」というのは酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり、「東の山」が酒船石のある丘ということになります。

2000年に北側山裾で大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備と小判形と亀形の石造物が発見されました。 これら二つは水槽で、そこから流れ出した水が石を並べた溝を流れていく仕組みとなっており、その周辺には石段が、さらに全体を囲むように階段状の石垣や、テラス状の石敷が造られていました。これらの遺構は、水辺の祭祀を執り行なう祭場だったと考えられ、この場所で国家的な祭祀が執り行われていたのです。

酒船石や北側斜面の石垣、祭祀遺構は、斉明天皇が「田身嶺(たむのみね)」に建てたとされる、道教風の両槻宮の一部とする説もあります。



i白村江の戦い

この頃、朝鮮半島の情勢は緊迫。



660年、百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされ、

翌年、百済を復興しようとする遺臣たちが要請



中大兄皇子は大量の援軍を百済に送り、自らも斉明とともに九州の娜大津(なのおおつ)(現在の博多)に移って、西国から武器や兵力を徴発し、用意を整えた。

↓しかし

途中で斉明が亡くなり、皇子は即位することなく、称制して軍の指揮を執った。



663年、倭の軍隊は、(   戦い)で、唐・新羅の連合軍に大敗。

『旧唐書』には、「倭と4回戦って、いずれも勝った、倭の船四百艘を焼き、海水は赤く血で染まった」と書かれたように、すさまじい戦いだった。



倭はこれによって朝鮮半島における力を失い、以後、唐軍が日本国内に攻め込んでくるのを防ぐ必要がでてきた。



翌年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽をおいて(  )を築き、さらに、亡命百済人の技術を得て、大野城などの山城と、対馬に金田城を築城して、防衛体制を固めた。



j天智天皇

667年には都を飛鳥から近江大津へ移し、

668年、中大兄皇子は即位して天智となる。



この間も朝鮮半島では戦乱が続き、唐と高句麗が争い、新たに旧百済領をめぐって、唐と新羅の争いが勃発。

668年、唐は高句麗を破るが、

676年には新羅が唐を駆逐し、朝鮮半島を統一。

↓朝鮮半島で戦乱が続いた結果、

唐が日本に攻め来ることはなかった。



天智は、670年に初の全国的戸籍の(    )を作成

671年、近江令を施行



内政改革を推し進め、日本風の律令国家体制の基礎を築いていく。



5,壬申の乱と天武、持統

a壬申の乱

天智は息子の大友皇子への皇位継承を考えていた。

↓これには、

唐に習って嫡子相続を行なうという目的もあったのかも知れない。

↓これに対し、

天智の弟で、皇位継承の有力候補だった大海人皇子は、出家を願い出て、吉野へ移ってしまう。



天智は亡くなって八角墳の御廟野古墳に葬られる。



天智の死後、672年、大海人皇子は、天智の政治に不満を持っていた東国の豪族を味方につけ、大友皇子に対し反乱を起す。

↓ここに

「    」といわれる日本古代史最大の内乱が勃発。



この内乱は大海人皇子側が勝利し、大友皇子側についた近江の中央有力豪族たちは没落。



b天武

翌年、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮で即位し、天武となる。



天武は壬申の乱の勝利者として権威と権力を高め、万葉集で「大君は神にしませば・・・」と神格化。



太政大臣や左右大臣を置かず自分で政治を行ない、権力を自らに集中。

一方、豪族は没落し、官僚として組織化され、武器を備えることを禁じられて、反抗する力もそぎ落とされる。



675年には豪族の私有民をやめ、支配権を強化

680年に飛鳥浄御原令を制定

684年、八色の姓という、天皇を中心に真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓を定めた身分制度を制定し、中央集権的国家体制を固めた。

↓ また、

支配の正当化を示すために国史を編纂。これが後の『古事記』『日本書紀』の出発点。

コラム

飛鳥池遺跡

天武朝から藤原京の末頃まで続いた、官営工房跡が発見されています。飛鳥池遺跡です。飛鳥池遺跡には金・銀・ガラス・銅・鉄などの工房があり、装飾玉、銅鏡、仏像瓦などを制作していました。これらは当時の最先端技術であり、寺院や宮殿、上流階級の人々によって使われていたものです。なかでも注目されるのが、富本銭と呼ばれる日本最古のお金で、これは、683年に、ここで鋳造されたことがわかりました。この遺跡から出土した木簡には「飛鳥寺」「天皇」などの文字もみえ、当時すでに天皇という名称が使われていることが証明されました。



c持統

686年、天武が亡くなると皇后が称制

皇后は、皇太子として期待していた草壁皇子に対して、大津皇子が謀反を企てたとして、自害させる。

↓しかし、

草壁皇子が亡くなる

690年、皇后みずから即位して持統となる。

持統は、698年に飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍、班田収授法を本格的に実施。

コラム

束明神古墳

草壁皇子の墓としてほぼ確定しているのは、束明神古墳です。束明神古墳は高取町佐田の春日神社境内にある対角線30メートルの八角墳で、1984年に発掘調査が行われ、切石積の石槨が検出されています。

高松塚古墳

高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村にある直径23メートルの円墳で、切石を組み合わせた石室を持っています。1972年から調査が行われました。この調査で天井、四方の壁に壁画が発見されました。天井には星座が描かれ、四方には四神の青龍、白虎、朱雀、玄武、男子群像、女子群像などが描かれていました。女子像は「飛鳥美人」として紹介され、考古学ブームを起こしました。わたしも新聞のカラーページのスクラップを大切にしていた一人です。壁画の内容は高句麗のそれと類似しており、朝鮮半島の思想や習俗が、貴族社会に取り入れられていたことが理解できます。盗掘されていたため、遺物は少なく、漆塗木棺の破片や海獣葡萄鏡など、数点が発見されています。被葬者は不明ですが、キトラ古墳と同じ7世紀末~8世紀とされています。

壁画は厳重な管理の中、そのままの状態で保存されてきましたが、2004年にカビによって退色や変色がひどくなっていることがわかり、2006年から石室を解体して保存処理することになりました。2007年に壁画は仮設の修理施設へ運ばれ、現在も修復が続いています。

キトラ古墳

奈良県高市郡明日香村の阿部山の斜面にある直径13.8メートルの円墳です。内部には、切石を組み合わせた石室が作られていました。1983年に、石室内に玄武の壁画が発見され、東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が鮮やかに描かれていることがわかりました。天井には天文図があり、天文図として世界的にも古いものです。被葬者は、703年に亡くなった阿倍御主人(あめのみうし)が有力です。

キトラ古墳も発掘後、そのままの状態で保存されてきましたが、カビの発生によって壁画が損なわれてきたことから、2004~2007年にかけて壁画をはぎ取り、保存する作業が行われました。

コラム

難しい壁画の保存

世界的に見ても、壁画を出土した状態のまま、遺跡のなかで保存することは難しいことです。日本のような高温多湿の環境ではなおさらです。高松塚古墳やキトラ古墳は非常に難しいことに挑戦した、意欲的な保存でした。壁画を大切にする考え方からいえば、発見して直ぐに、壁から剥がして保存すべきということになります。でも、ちょっと考えてください。動物園で動物を観察することも大切ですが、自然の中で暮らす動物を観察することと、動物園で観察することは違う意味を持っているでしょう。おなじように、考古学では、遺構と遺物(この場合、壁画)はその場所(地理的・歴史的環境)で、お互いが関連し、作用しあってこそ意味があると考えていますので、できるだけ、原位置保存を心がけるようにしています。

カビによって壁画が損なわれては元も子もないので仕方ありませんが、壁画を壁から剥がすことは、考古学からいえば、非常に悲しい決断だったのです。

コラム 石碑

当時、各地に立てられた石碑が、いくつか残されています。これらの石碑は、朝廷の支配や仏教が、地方に浸透していく様子を伝えてくれるとともに、文字を読み書きが普及していく様子も、私たちに伝えてくれます。

那須国造碑

栃木県那須郡には那須国造碑があり、高さ120センチ、幅約48センチ、厚さ40センチの角柱形の碑身の上に、高さ約28センチの笠石がのっています。689年(持統3年)、評督に任ぜられた那須国造葦提が、700年に亡くなり、意斯麻呂(おしまろ)らがその生前の徳をしのんで建碑したことが記されています。国造や評などの文字が見えることから、当時、那須の地にまで、朝廷の地方支配が及んでいたことが知られます。

碑は延宝4年(1676年)、僧侶の円順により発見されました。当時、領主であった徳川光圀は、笠石神社を創建して碑を保護することにします。さらに、碑文に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓であろうと推定した、上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を、家臣の佐々宗淳に命じるのです。発掘した遺物は図面をとり、また元のように埋め戻されています。この発掘が、日本で初めての学術的発掘調査です。この碑は1952年(昭和27)、国宝に指定されました。

群馬県山ノ上古墳

群馬県高崎市山名町字山神谷にある山ノ上古墳は、直径15メートルの円墳で、横穴式石室があります。この古墳の近くには、山ノ上碑が立ち、辛巳(かのとみ)の年(推定681年)に、放光寺僧の長利によって、母の黒売刀自(くろめとじ)の系図を記した銘文が、彫り込まれています。山ノ上古墳は、7世紀の終わり頃、黒売刀自のために造られた古墳なのです。

金井沢碑

群馬県高崎市山名にある高さ約1.1メートル、幅約70センチメートルの輝石安山岩の川原石に彫り込まれた碑文です。神亀(じんき)3年(726)、上野国群馬郡下賛(しもさぬ)郷戸高田里の三家(みやけ)の9人が、仏教に帰依(きえ)し、祖先および父母の菩提(ぼだい)を弔うことを誓ったものです。8世紀に上野国に仏教が浸透していく様子がわかります。

多胡碑

群馬県多野(たの)郡吉井町にある石碑です。碑身・笠石・台石から成り、材質は安山岩、碑身は高さ125センチ、幅60センチの角柱で、笠石は高さ25センチ、軒幅88センチの方形です。この碑文は、和銅4年3月9日(711年)に、多胡郡が設置されたことを記念して建てられました。



d藤原京

持統は694年に、中国の都城制にならって造営された(   )へ遷都



ここに律令国家体制の完成をみる。



この藤原京は、持統・文武・元明の三代にわたって継承される都となり、それまでのように一代限りのものではない。



また皇位継承候補を含む、有力豪族に邸宅を貸し与えて集住させたため、豪族の官僚化が進むことになった。

建物も、礎石を持ち、瓦葺きの大陸風の建築技法を取り入れた大極殿など、宮都としてふさわしいものだった。

・野口王墓

697年に、持統は皇位を文武に譲り、自らは大上天皇として、ともに政治を行ないますが、5年後に亡くなる。

持統は天皇として初めて火葬され、天武とともに八角墳の野口王墓に合葬。

天武は夾紵棺に、持統は金銅製骨蔵器に納められた。



コラム

・火葬と墓誌

『続日本紀』によると、日本で最初に火葬された人は僧道昭であり、文武四年(700年)のこととされています。しかし、火葬は、仏教の伝来とともに日本に伝えられており、大阪府陶器千塚21号墳など、カマド塚の火葬例から、6世紀後半には始まっていました。火葬の普及によって、人々の意識は、日本独自の死生観から、アジア的死生観へと変化したことを意味しています。

7世紀後半の墓からは、墓誌が出土することがあります。墓誌とは、金属板や石・陶板などに、亡くなった人の姓名や経歴・没年などを書いて一緒に納めたもので、墓の被葬者が特定でき、貴重な資料です。現在、18例ほどが見つかっており、668年に火葬にされた船王後の墓誌などが有名です。蔵骨器などに記された場合もあり、吉備真備の祖母で、708年に葬られた、下道圀勝圀依母蔵骨器などがあります。723年に亡くなった太安萬侶の墓は、1979年に発見されました。円形の墳丘を持ち、中央の方形の木櫃の中に、火葬骨と真珠などとともに、墓誌が納められていました。



e白鳳文化

天武・持統の頃は(    )の思想



大官大寺や薬師寺などの官寺が建立。

遣唐使のもたらした文化の影響で、唐風の興福寺仏頭や薬師寺金堂薬師三尊像などの金銅仏が作られ、法隆寺金堂壁画などが描かれた。

「大化の改新」から藤原京の頃までの文化を、天武の元号と考えられていた「白鳳」から、白鳳文化と呼ぶ。



6,大宝律令と古代日本の成立 

a大宝律令

文武のもと、刑部親王、藤原不比等らによって、701年、(    )が完成。

律とは刑法で、罪の重さによって笞・杖・徒・流・死の五種類の刑があった。とくに天皇や尊属に対する犯罪は、八虐として重く罰せられた。

令とは行政組織や官吏の服務規定や租税、労役などの規定。



大宝律令は、天皇を中心とした中央集権国家体制の完成を意味し、これにより、制度と機構を完備した、(    )が完成した。



b官僚組織

中央官制には、二官八省一台五衞府を設けた。

とくに重要な3つの地域に、京には京職、難波には摂津職、筑紫には大宰府を設置。

地方は、諸国を五畿七道に分け、その下に国、評から改められた郡、里を設けて、国司・郡司・里長を任命。

国司は中央から赴任し、地方豪族の郡司や有力農民の里長を監督した。

各国には国司が地方政治を行なう国府や、郡司が政務を行なう郡衙が置かれた。

伯耆国府や静岡県志太郡家などの調査により、国府は国丁を中心に配され、郡衙には正倉と思われる倉庫群が伴うという特徴がわかってきた。

また、壱岐国正倉の印が伝えられており、正倉の管理に用いられていた。



c道路と駅制

中央と地方を結ぶ主要道路には駅家が置かれ、駅馬を用いて連絡網がはられていた。



駅馬を利用するための駅鈴が、隠岐国造家の伝来のものとして残っている。

幹線道路の駅道は、幅約12メートル、枝道の伝路は約6メートルで、佐賀県吉野ヶ里遺跡では西海道の調査が行われ、関東では東山道武蔵路などの調査もされており、全国的に整備されていることがわかっている。



道路は、単に往来のためだけではなく、命令の伝達や情報伝達をスムーズにするためにも、また、軍隊を迅速に移動させるためにも整備する必要があった。



d身分の成立

豪族は公地公民に応じ、その代わりに、高い位階をうけて支配階級となった。



官庁は、長官・次官・判官・主典の四等官と、下級官人によって構成され、官位相当制によって位階に応じた官職に任命され、食封や位田・職田・禄などが与えられた。

↓また

五位以上の子孫は、父や祖父の位階に応じた、一定の位階を自動的に与えられる、(    )という特権を得て、貴族となった。



身分制も整えられ、人々は良民と賤民に、良民は官人・公民・品部・雑戸に、賤民は陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢の五色の賤に分けられた。



e戸籍と税制

戸籍は6年にごとに作られ、数世帯をまとめた世帯共同体を房戸に、房戸をまとめた家父長制的世帯共同体を郷戸に、郷戸50戸を1里に編成した(古庄浩明1994「古代における鉄製農工具の所有形態」『考古学雑誌』第79巻第3号日本考古学会、古庄浩明1999「古代社会構造に関する一考察」『法政考古学』第25号法政考古学会)。



戸籍は、702年の筑前国嶋郡川辺里の戸籍や、721年の下総郡大嶋郷戸籍などが残っている。



この戸籍に基づいて、田地を整備し、区画した口分田を給付する、班田収授法が施行。



口分田を区画するために、条里制という土地区画制度を行なった。



現在でも、北海道と沖縄をのぞいた各地で、条里制の跡を見ることができる。



また、庸調や労役を徴収するために、計帳を作成。

計帳には年齢や容貌まで記載され、毎年作成されていた。



神亀元年(724年)・同2年(725年)の『近江国志何郡計帳』などの計帳断簡を始め、いくつか現存。

↓そのほか、

庸調の様子を知ることができるものとして、各地方からの貢納品につけられていた荷札が、木簡として出土。

公民には、租庸調のほか雑徭・仕丁・軍団に徴発され、一部衛士や防人となる兵役が課せられた。

遠賀や三笠の軍団印や、木簡、墨書土器などに、徴発された先の役所の名などを見ることができる。

このほか、義倉や出挙の制度もあり、公民は重い負担をおっていた。



コラム

古代の集落と戸籍

古代の集落は、古墳時代から続く自然集落と、開拓などのために新しく作られた計画村落があります。人々の住む家は、西日本では、7世紀には、穴を掘って床を作り、屋根をかけた、竪穴式住居から、柱を立てて床を張り、屋根をかける、掘っ立て柱住居に変わっていましたが、東日本では、依然として竪穴住居でした。大規模な発掘調査が行われた関東の集落をみると、住居址が2~6軒ほどが集まって1つのグループ(小群)を形成していることがわかります。さらにこのグループがいくつか集まって大きなグループ(大群)を形成しています。ここでは千葉県東金市の作畑遺跡の図を載せています。作畑遺跡でも5~6の小群と、それをまとめた2つの大群から成り立っていることがわかるでしょう。住居址にはそれぞれ竈が一つずつついています。竈では、ご飯を作っていたでしょうから、一つの家には、ともに寝て、ともにご飯を食べる人たちがいたことになります。住居址の面積から考えて、これらの人たちは、核家族(世帯)だったことが推測できます。

下総国大嶋郡戸籍を見てみましょう。この戸籍は養老5年(721)のもので、現在の東京都江戸川区にあった村の戸籍です。戸籍の中の孔王部三村の郷戸をみると、総勢12人です。房戸主は「三村」と、三村の兄弟の子「百足」です。三村には2人の奥さんがあり、それぞれに子供がいます。子供といっても、三村は71歳で、奥さんの伊比賣は61歳、3人の子供達も39~25歳で、立派な大人です。三村のもう一人の奥さん刀自賣は、39歳。子供も1歳です。こうしてみると、三村のお宅は3~4軒ほどの家で生活していることが推測できます。

百足のお宅は、奥さんと子供が一人、それに31歳になる弟ですから、2軒の家で暮らしているようです。したがって、三村の郷戸は、全部で5~6軒ほどでしょう。

作畑遺跡と大嶋郡戸籍を比較してみると、核家族が1軒の家で暮らしていますから、小群が房戸、大群が郷戸にほぼ比定できるようです。そして、いくつかの郷戸を集めたものが村ということになります。

このように、古代には大家族で暮らし、郷戸は家父長的世帯共同体に、房戸は世帯共同体に、核家族としての世帯を各住居に比定できます。

古墳時代後期、一つ一つの群集墳や横穴墓は、房戸に似た集団によって営まれ、いくつかの群集墳や横穴墓を、それらをつなぐ墓道や墓のまとまり方によってまとめたものが、郷戸に似た集団ということになります。

人々の暮らしは、基本的には古墳時代とあまり変化がなかったようです。鉄製品の普及などにより生産性が上がり、少しは良くなっているのかも知れませんが、貧窮問答歌にみるように決して楽なものではなかったのです。

(古庄浩明1999「古代社会構造に関する一考察」『法政考古学』第25号法政考古学会)

コラム

・山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳 神亀3年(726)

山背国愛宕郡出雲郷雲下里は鴨川右岸にあり、京都市上京区です。いまの同志社大学今出川キャンパス付近もその一部です。出雲郷の人々は7世紀中頃、出雲から移住してきたといわれています。

ここで出雲臣吉事さんのお宅を拝見してみましょう。

吉事さんの郷戸には、昨年、男性5人・奴2人・女性19人・婢4人の合計30人が登録されていましたが、726年、新たに女の子が登録されました。よって、今年は女性が20人となり、合計31人です。税金を納める責任があるのは一人で、現在課税を負っているのも一人です。調を運ぶためのお金を9銭出しています。

吉事さんは34歳ですが、精神に異常をきたし、病気です。左の頬にほくろがある人です。お母さんの鳥木売さんは61歳で片方の目が見えません。右の頬にほくろがあります。息子の豊島さんは8歳、もうひとりの息子豊成さんは4歳です。4~16歳までは小子と呼ばれます。娘さんはひとりで、豊日売さん6歳です。これまで帳簿に登録されていませんでしたが、今年から登録されました。吉事さんにはお姉さんが3人おり、右頬にほくろのある真飛鳥売さん37歳と、養老6年にどこかへ行ってしまった37歳の宅主売さん、辞无売(おとなしめ)さん34歳は、左の唇にほくろがあります。叔母の形名売さんは66歳ですが、彼女も和銅6年にいなくなっています。最後に婢の乎都貴売さんは61歳で、左顎にほくろがあります。吉事さんの奴隷です。このように戸内の人数や性別、年齢、良賤だけでなく、身体の特徴や病歴までも記していました。

もう一軒、大初位上という位に任命された、筆さんのお宅をみましょう。大初位とは下から4番目の位で、下級の役人さんです。筆さんはもう70歳で、右頬にほくろがあります。むすこに大初位下の位の安麻呂さんがいます。42歳です。眉にほくろがあり、長屋王妃の吉備内親王の従者として、平城京につとめていました。もうひとりの息子は酒麻呂さん23歳、顎にほくろがある人です。そのほか、娘2人と孫3人で暮らしていました。

1988年、奈良市の平城京の長屋王邸跡の発掘調査が行われたとき、安麻呂さんの名前が書かれた木簡が出土しました。「无位出雲臣安麻呂 年廿九」と書かれており、安麻呂さん29歳の時のものです。この時期、彼はまだ無位でした。続いて「上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五」と記されており、一年のうち320日も勤務し、そのうち185日は夜勤をこなしていました。この木簡は、安麻呂さんの年間の出勤状況を書いた、いわば出勤簿だったのです。今と勤務形態が違いますが、安麻呂さんは過労死しそうなくらい働いていたわけです。しかし、下から3番目の大初位下の位になるまで10年余りかかっています。働けど、働けど、昇進は難しくという状況で、下級官人はなかなか出世できなかったのです。古代も現代も、サラリーマンは気楽な稼業ではなかったわけです。

(辰巳 和弘2004「第3回 今出川校地と古代“出雲郷"」『収蔵資料と遺跡』同志社大学資料館http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/articles/record/detail.asp?xml=record20041222.xml)



7,日本のはじまりと飛鳥時代の終わり

a日本のはじまり

702年、高橋笠間を大使、粟田真人を執節使とした第8回遣唐使は、則天武后の武周に対し、律令国家の確立を知らせるとともに、国名が「  」であることを宣言。



これによって日本古代国家の成立を国内だけでなく国外にも宣言した。



ちなみに、717年の第9回遣隋使とともに渡唐し、734年に西安で亡くなった井真成の墓誌に記されたものが、資料として最も古い「日本」という国名の記載。



b飛鳥時代の終わり

707年文武の死後、その母の阿閇(あべ)皇女が即位し元明となった。

翌年、皇朝十二銭の最初となる和同開珎が鋳造。

↓そして、

710年に都を(   )に移し、飛鳥時代は日本古代国家の成立と軌を一にして終焉を迎え、奈良時代となる。

コラム

平城京の調査

平城京は、江戸時代の終わり頃、大和古市奉行所の北浦定政によって測量が始められ、明治になって、関野貞や喜田貞吉らの学者や、棚田嘉十郎らの民間人によって調査・保存されてきました。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付されました。1922年には平城宮址(へいじょうきゅうし)は国の史跡に指定されました。昭和になり、近畿鉄道の車庫をつくる計画や、国道をつくる計画がもちあがり、そのつど保存活動がおこり、1998年には世界遺産にも登録されました。

現在は「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」によって、朱雀門や東院庭園の復元が終わり、2010年には大極殿の完成を目指しています。平城京は、奈良の都であるとともに、日本における遺跡保存の歴史でもあります。

近鉄奈良線で奈良にお越しの折りは、西大寺駅から近鉄奈良駅までの間の、いまは公園となって、立派な朱塗りの建物などがある平城京跡を、車窓からご覧ください。そこが1300年ほど前は日本の中心で、天皇や貴族、その他多くの人々が生活していた「都」だったのです。

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

佐藤信2001「律令国家への道」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

白石太一郎2001「古墳時代から飛鳥時代へ」『考古学と歴史』放送大学教育振興会

宇野隆夫2001「律令時代の社会」『考古学と歴史』放送大学教育振興会

宇野隆夫2001「律令時代の産業と文化」『考古学と歴史』放送大学教育振興会

岸俊男・早川庄八編1987「推古朝から壬申の乱へ」『週刊朝日百科 日本の歴史』45 朝日新聞社

林屋辰三郞・上田正昭編1987「仏教受容と渡来文化」『週刊朝日百科 日本の歴史』46 朝日新聞社

岸俊男・狩野久編1987「平城遷都と律令」『週刊朝日百科 日本の歴史』48 朝日新聞社