考古学の世界-国内版-
(教科書 古庄浩明2011『考古学の世界』は和出版のホームページおよび和出版にて販売しています)
考古学とは何でしょう?
-考古学の定義-
考古学は
①人類が残した過去の痕跡( ・遺構・遺跡)を発見し、
②これらを科学的に研究し、
③想像力を働かせて、過去の( )を復元する学問です。
そして、その目的と使命は、
復元した過去の社会や歴史を人類の知的財産として、教育や普及活動を通して私たちの現代社会に還元することです。
また、わたしたちに人類の過去を教えてくれた、文化遺産である遺跡・遺構・遺物の重要性を皆さんに知らせ、これらを後生の人びとに残すために、破壊や損傷・劣化から守ることにも努めなければなりません。→過去の人類の残した文化遺産は作ることができない
↓
絶対数が決まっている
したがって
私は考古学の基礎を大きく4つと考えています。
1,分布調査を行って資料の所在を明らかにし、それを収集するため発掘調査を行う
2,考古学理論を駆使して過去の社会や歴史を復元する
3,復元した過去の社会や歴史を現代社会へ還元するための( )活動
4,後生に文化財を伝えるための( )活動・有効利用
です。
考古学の方法は
1,資料の収集=分布調査・発掘調査・整理作業→分析→報告書作成
2,資料を使った研究→論文発表・刊行物
3,過去の社会・歴史の復元→論文発表・出版物
という大まかな流れをたどります。
さらに、
4,教育・普及→論文 博物館などの展示 講演 出版物など
によって社会への還元が行われます。
また、
文化遺産の修復・保護に努め、
1,資料の調査
2,保存・修復方法の検討
3,保存・修復
4,保護・維持
5,教育・普及・有効利用
を、文化財保存科学者たちと協力して行わなければなりません。
考古学の位置
現在、考古学は
人類学の一分野とする考え方と、
歴史学の一分野とする考え方があります。
人類学とは、「 」について研究する学問で、人類学では人類の一般的法則を求め、動物としての人類と、人類の特徴である「文化」について研究するものです。
人類学は、
動物としての人類の肉体的特徴を研究する( )と、
人類だけがもつ「文化」について研究する文化人類学、
過去の人類がもった「文化」について研究する考古学
に分類されています。
一方、
・歴史学とは、「 」について研究する学問で、それぞれの国や地域の歴史を求めようとし、
文献資料から歴史を復元する( )と
物質から歴史を復元する考古学
に分類されます。
ヨーロッパ・日本では、考古学は主に歴史学に、
フランス・アメリカでは考古学は人類学に 分類されてきました。
イギリスや日本では
現代の私たちの祖先や民族・国や地域の成り立ちを探求するという目的で、考古学は歴史学に分類されました。
フランスでは
先史考古学という分野が盛んで、対象の考古学資料が現代の人類に直接結びつくとは考えられていません。
アメリカでは、
白人の歴史は200年余りしかなく、それ以前はネーティブ・アメリカンの世界です。
↓
したがって考古学を「歴史」ではなく、「人類学」の分野に位置づけることが一般的だったのです。
考古学が過去の人類の社会と、その変化を探求しようとすると、そこには時間軸が介在せざるおえません。
↓したがって、
私は、考古学を歴史学の一分野と位置づけています。
考古学の歴史
ライオンのように鋭い牙も、熊のような爪も、チーターのようなスピードもない人類にとって、過去のことを振り返り、失敗を繰り返さないようにしたり、成功した行為や新しい工夫を後生に伝達することによって、人類は生存し繁栄してきました。
↓よって
人類は、生まれながらにして祖先や過去の人びとの行為に「昔話」や「伝説」「神話」という形で関心や興味を持ち、そこに教訓や自らの起源を見いだす動物だったといえます。
↓
人類は無意識のうちに歴史を習得し利用している動物です。
↓このように
人類にとって歴史は( )の一つだったのです
考古学の起源
歴史が人類の生存戦略であったので、考古学の起源も人類が生まれた遙か昔にさかのぼると推測することもできます。
昔の人びとの遺産として考古学が意識され始めたのは14世紀頃からです。
↓しかし、
その初源は神話的なものであり、およそ科学的な思考とはかけ離れてものでした。
14世紀~17世紀 ( )期 古典復古→ギリシャ・ローマの遺物の収集・遺跡の調査
イギリス ストーンヘッジなどのモニュメントが注目された
アメリカ大陸 ティオティワカンの調査
ティオティワカン メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡
18世紀 科学的調査の芽生え
イタリア ポンペイの調査が開始→科学的な調査は19世紀から
1765 ペルー ファカ・デ・タンタルックの遺跡で層位的な調査が初めて行われた。
アメリカ ( )(第三代大統領) ミシシッピー川沿岸の墳丘墓はネーティブアメリカンの祖先ではなく、神話上の白人のマウンド・ビルダーが造ったものと想定発掘して証拠を収集して証明しようとした
↓
1784 ヴァージニア所領地の墳丘墓の調査=トレンチを層位的に調査した。
ネーティブアメリカンの祖先が造ったことを否定できなかった
イギリス リチャード・コルト・ホア 墳墓を形状で分類→型式分類のはじめ
19世紀半ば 近代考古学の始まり
1669年、デンマークのニコラウス・ステノ→「地層は下の層ほど古く、上の層ほど新しい」という地層累重の法則を発表
1841 ジャック・プシェ・ドゥ・ペルテ→フランス ソムン川の石切場で、礫石器と絶滅動物の骨が共伴していることを発表
↓
洪水伝説以前に人類が生存していたと主張
↓
人類の始まりは聖書で書かれたよりもはるかに古いことを証明=聖書とは別の人類の歴史が必要となった。
1859 チャールズ・ダーウィン『 』 生物学的進化論
自然淘汰 適者生存
周囲の環境に適応した個体が生き残り、有利な特性を子孫に伝えることによって、徐々に進化して新しい種が生まれる
↓
文字のない時代、考古学の技術を駆使して人類の起源を探る
社会進化論
唯物史観 に影響を与える
物質文化の進化
↓
オスカー・モンテリウス(スウェーデン) 型式学
1836 C.J.トムセン デンマーク・コペンハーゲン国立博物館のガイドブックで紹介
博物館資料をその素材により石器時代・( )・鉄器時代に分類→三時代区分法
後に石器時代は磨いた石器を用いる新石器時代と打ち欠いただけの磨かない石器を使う旧石器時代に分ける
↓
遺物を研究することによって、相対的な年代を明らかにできることを明らかにした。
三時代区分法が通用しない地域もある
青銅器を使用しなかったサハラ砂漠以南
鉄器を持たなかったアメリカ大陸
↓しかし
三時代区分法の概念は文化の特徴をあらわしたり、進化の過程を比較するため、また、お互いの時代を比較するためにも必要
「人類の起源」
「進化論」 物質(遺跡・遺物・遺構)を科学的に研究し、人間の歴史を探
「三時代区分法」 るという考古学の枠組みが完成する
民族学の発展と考古学への応用
大航海時代→西洋文化とは違う様々な文化・民族が紹介される
素朴な民族・社会の研究→素朴な社会で用いられる道具と類似した遺物が先史時代の遺跡 から出土→考古学にとって民族学が有用
↓同時に
西洋は素朴な社会から高度な社会へ発展したと考えられる
↓
進化論の影響で人類の発達過程を検討=社会進化論
1877 ルイス・ヘンリー・モーガン1877『古代社会』
人類は 野蛮(原始的狩猟)→未開(単純農業)→文明(高度な社会)へと進化する
↓
カール・マルクス 1858『先資本主義経済の形成』 『資本論』
フリードリッヒ・エンゲルス 1884『家族私有財産および国家の起源』
エジプト・メソポタミア・新大陸での古代文明の発見と調査
聖書世界と聖書にない新たな古代文明の解明
エジプト
1798~1800ナポレオンエジプト遠征( )の発見 ↓
1882 シャンポリオン ロゼッタ・ストーンの解読
メソポタミア
フランス隊(ポール・エミール・ボッタ)とイギリス隊(オースティン・ヘンリー・レイヤー)の資料収集争い=美術品の収集
↓
1850ヘンリー・ローリンソンによるくさび形文字の解読
ホメロス『イリアッド』の研究
トロイ戦争 ↓
1870~1880年代 ハインリッヒ・シュリーマン ( )の発掘
ミケーネ文明の発見
調査技術の進展
19世紀後半~20世紀初頭
ピット・リヴァース将軍 イングランドの墳墓における軍隊的な組織・正確な方法論と調査の実践
ウイリアム・フリンダース・ペトリー エジプト・パレスティナでの詳細な調査
↓ 浜田耕作の師
1960年代まで「編年と歴史の時代」
編年体系の確立と各地域の歴史の確立
1920エジプト・ツタンカーメン王墓の発掘
20世紀初頭
ゴードン・チャイルド 資料の分類と整理から特定集団の文化と起源に迫ろうとした
↓
日本考古学に影響
生態学的アプローチ
人類学者 ジュリアン・スチュワード
文化は他の文化との影響し合うだけではなく、環境とも相互に作用しあう=環境への適応
↓
ゴードン・ウイリー ペルー ヴィル渓谷で環境と集落パターンを照合
プロセス考古学のはじめ
第二次世界大戦後
自然科学を考古学へ応用する
↓
放射性炭素年代測定法など
花粉分析
DNA分析
1960年代 ニューアーケオロジーの出現 (現在はプロセス考古学と呼ばれる)
従来の考古学理論に対する反論
↓主な反論
従来の考古学では「過去に何が起きたか」を知ろうとするだけで、「なぜそれが起きたか」を説明しなかった。また、過去を復元する方法が経験的で客観性を欠いていた。
↓
1,過去の復元ではなく、過去の社会や変化を説明しなければならない
2,説明は経験的妥当性によって説明するのではなく、定量的・客観的証拠をもって検証し説明する
3,資料をつなぎ合わせて帰納法的に結論を導き出すのではなく、仮説をたてモデルを構築して演繹的に説明し、一般化する
ルイス・ビンフォード1968『考古学に於ける新しい視点』
一般法則性をもとめる
日本の場合
初めての学術調査
( ) 上侍塚・下侍塚の調査
徳川光圀は1692年(元禄5年) 10数年前の1676年(延宝4年)に発見された那須国造碑との関連を調べるために、小口村(那珂川町小口)の庄屋・大金重貞らに命じて、発掘調査しました。しかし、関連を裏付ける墓誌などは発見できず、出土品は絵図に記録後松板製の箱に収め埋め戻されました。これが、日本最初の学術発掘です。
エドワード・S・モース(生物学者)( )の発掘
進化論や考古学の講演を行う。
日本の考古学に多大な影響を与えました。
彼の学風を受け継いだ佐々木忠次郎や飯島魁(いさお)は生物学者だったので、陸平貝塚の報告を最後に、彼の考古学の教えは途絶えてしまうことになります。
1884 坪井正五郎や白井光太郎が人類学会を設立→石器時代の研究を進める
1895 三宅米吉は、考古学会を設立→主に古墳時代の研究を進める
↓
明治期の考古学会をリード
浜田耕作
1913 京都大学に考古学研究室を作るためイギリスに留学→ペトリ-に師事
最新の考古学や型式学を学び、帰国後、1918年から、「考古学の栞」として、その研究方法を『史林』に連載
↓
1922浜田耕作「通論考古学」日本最古の考古学概説書→京都大学の講義要項をまとめたもの→ペトリ-の影響・モンテリウスの型式学も引用されている
1932モンテリウスの型式学を「型式学的研究法」として翻訳
↓
日本考古学の基礎となった。
1927チャイルド『ヨーロッパ文明の曙(1825)』翻訳
『文明の起源』
『考古学の方法』 日本考古学に大きな影響をあたえた
↓
現在も日本考古学の基礎
古生物学者の松本彦七郎→貝塚を分層的に発掘し、「地層類従の法則」「標準化石の概念」を取り入れ、さらに進化論を応用して土器の形式の変化を説きました。
↓
大正末から昭和前半の山内清男ら縄文土器研究者へと受け継がれる。
↓
独自の形式論を発展させ、全国の編年表を作成して縄文土器研究の基礎を築く
1927年、直良信夫は西八木海岸で石器を採集→1931年にこれを発表し、日本の旧石器時代の存在を主張。同年、同じ海岸で、人の寛骨を発見
↓
戦後の1948年、長谷部言人が「 」として発表
弥生時代の名称→1884年有坂鉊蔵・坪井正五郎らが向ヶ丘弥生町貝塚で発見した土器に由来
1906年、八木裝三郎は弥生土器を縄文土器と須恵器の中間の土器として、弥生時代が縄文時代と古墳時代の間の時代であることを示す
↓
森本六爾→弥生時代を農耕社会と位置づける
考古学資料から当時の生活の基盤を追求するという研究方針を確立
↓
小林行雄→1933年、様式の概念を発表し森本とともに弥生土器の編年を形成
戦前・戦中=帝国主義と天皇を中心とした神話的歴史観をかかげて2つの世界大戦に突き進んだ→日本の原始古代について科学的に論究することはできない状況
1945年、ポツダム宣言を受諾し、翌年、日本国憲法が発布
↓
学問の自由と言論の自由が保障された民主主義の国
これによって考古学的資料から科学的・実証的に歴史を構成することができるようになった
相沢忠洋が岩宿遺跡で関東ローム層の中から石器を発見
↓
日本に旧石器時代が存在したことが証明
多くの研究者が集って行われた静岡県( )の調査
1948 日本考古学協会発足
考古学の研究発展と文化財保護運動に力を尽す
1960年代ニューアーケオロジーやポスト・プロセス学派の影響
小林達雄の吹上パターン
酒井龍一のセトルメント・システムなど、資料の解釈の理論化に大きく寄与
現在では、コンピュータを使った数量解析や実験考古学、環境考古学、動物考古学、そのほか、いろいろな手法で考古学の研究が行われています。しかし、このようないろいろなアプローチも、人類の歴史を探求する以上、時間と空間と変化に論究する必要があります。そして、その証明方法は、考古学はモノから思考する学問ですから、帰納法的であれ演繹法的でれ、実証的なものであり、唯物史観に乗っ取ったものとなるでしょう。
考古学の資料はどうやって収集されるのでしょう?
-発掘調査について-
考古学の資料は人類の過去を考察できる( )です。
モノには動産と不動産があり、動産を遺物、不動産を遺構と呼んでいます。また、遺物と遺構を有機的に結合したある一定のまとまりのことを遺跡と呼びます。
↓
これらの資料を収集し、理論を構築・証明する方法→発掘調査
考古学の発掘調査は科学の実験にあたり、考古学の基礎的な活動
科学の実験と最も大きく違う点は、一度発掘した遺跡は消滅・破壊されてしまい、二度と発掘できない点です。その面では発掘調査は遺跡破壊行為に一つであることを忘れてはいけません。従って、調査者は調査の過程とその結果を正確に記録して公開する義務を負っています。
発掘調査は、遺跡の年代確定、遺跡の性格、遺跡の自然環境、遺跡の生成・廃棄の課程とその原因の究明など考察できるように調査することが大切
↓
発掘には理論と技術が必要
考古学の調査は遺跡・遺物・遺構を三次元的にとらえ、これを四次元的に思考することです。発掘の理論と技術はこの方法を発展させてきたといえます。
発掘調査の歴史
17世紀以前は偶然の発見
↓
18世紀以降
美術品収集目的の略奪発掘
18世紀後半 ( )の略奪発掘に対するドイツ人考古学者ヴィンケルマンの抗議と発掘方法の指導
↓
18世紀後半から19世紀 未開の地への冒険や探検の考古学→略奪発掘
( ) エジプト遠征
メソポタミアの調査など
19世紀
1841 ジャック・プシェ・ドゥ・ペルテ→フランス ソムン川の石切場で、礫石器と絶滅動物の骨が共伴していることを発表 層位学を応用
↓
洪水伝説以前に人類が生存していたと主張
↓
人類の始まりは聖書で書かれたよりもはるかに古いことを証明=聖書とは別の人類の歴史が必要となった。
1871 シュリーマンによるトロイに発掘開始→層位学的発掘方法の確立
1880~1890 ピット・リヴァースがイギリス クランボーン・チェスの発掘で、遺跡の平面図と断面図を作成し、報告書を出版
↓
科学的発掘法の確立
遺物・遺構の層位を確認する
遺構・遺物を( )的に発掘し記録する。
19世紀末 クノッソス宮殿 ハラッパ モヘンジョダロ ツタンカーメン王墓の発掘
トレンチ調査
層位観察用の畦( )を残す方眼区画
↓
ウィーラー『大地からの考古学』→日本の発掘方法の基礎
1970 緊急調査の拡大
→トレンチ調査から面的な調査へ
自然科学的研究方法の進歩→サンプリングなど
日本の発掘調査
江戸時代
茨城県大串貝塚→巨人伝説
好古家が珍品を収集
水戸光圀の調査は学術的
明治時代
1877 エドワード・s・モース( )の調査→近代的・科学的発掘調査の始まり
↓
モースの伝統は続かなかった
1910年代 松本彦七郎 宮城県里浜貝塚の調査→(層位学)的発掘
八幡一郎・甲野勇 加曽利貝塚・姥山貝塚→貝層と貝層下の土器で時期を分け縄文土器編年作成
浜田耕作 『通論考古学』「第3編調査」がペトリ-の『考古学の方法と目的』を参考に書かれた
1919 史跡名勝天然記念物法制定→文化財保護行政のはじめ
世界でも早い時期の保存保護に関する法律
( )金堂の消失
1949 文化財保護法の制定→埋蔵文化財=国民共有の財産
1965 「埋蔵文化財発掘調査の手引き」 文化財保護委員会→発掘調査の標準化
イギリスで確立した発掘法に日本独自の測量法や実測法などを加味した
自然科学を利用→分析資料を採集するための発掘方法の開発
低湿地・動物遺存体・水中遺跡・花粉分析・年輪年代測定法など
高度成長期→1996年 年間12000件の工事に伴う発掘調査が行われる
2006年 8000件を超える調査
大規模開発→遺跡の部分を掘る発掘から遺跡全体を掘る発掘へ
山内丸山遺跡 縄文時代の巨体集落
吉野ヶ里遺跡 弥生時代のクニに匹敵する環濠集落
↓
保存・保護の必要性
成果
福岡県( )遺跡 縄文晩期の水田や足跡
京都市烏丸通り 平安時代~中世の道路
宮城県里浜貝塚 貝層の分析→貝殻の廃棄の単位→季節ごとの生活
福井県鳥浜貝塚 低湿地から植物・動物遺存体が出土→食生活の復元 自然化学分析
遺跡の発見から調査・報告書の刊行まで
遺跡の発見
遺跡には、すでに知られていた既知の遺跡と、知られていない未知の遺跡があります。そして、いままで知られていなかったが、今回何らかの理由で知られることになった遺跡を新発見の遺跡とよびます。新発見の遺跡はその存在が知られた段階で、未知の遺跡から既知の遺跡になるのです。エジプトのピラミッドや万里の長城、ローマの公共広場の建物、ストーン・ヘッジなど、その意味は忘れ去られ、伝説や神秘的な解釈が与えられても、存在が忘れ去られることがなかった建造物も既知の遺跡です。
今まで知られていなかった遺跡を見つけることを「遺跡の発見」とよびますが、遺跡の発見は、偶然に発見される場合と、探査によって探し出される場合があります。
・偶然の発見
ラスコー洞窟
ラスコー洞窟(-どうくつ/Lascaux)は、フランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村の近郊に位置する洞窟で、15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれていた。数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形などの先史時代( 文化)の洞窟壁画で有名ですが、この洞窟は1940年9月、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちが偶然に発見したものでした。
秦の始皇帝の兵馬俑
兵馬俑とは、古代中国において死者を埋葬する際に副葬された兵士及び馬をかたどった俑で、秦王として紀元前246年に即位し、前221年には中国を統一して、初めて皇帝を称した始皇帝のものが有名です。
この兵馬俑の発見は、1974年、畑を営んでいた住人が井戸を掘ろうとして偶然見つけたもので、その当人はその後、博物館の名誉副館長となりました。
農作業に伴って発見される場合、土木工事、建築工事などの工事に伴う発見も多数あります。
吉野ヶ里遺跡
1980年代、佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画、その際文化財発掘のための事前調査を始め、1986年の本格調査によって、遺跡が約59ヘクタールの広範囲に広がることがわかり、工場団地計画を縮小することになりました。その後、考古学者の佐原真をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、1989年は県は遺跡と重複する地域の開発を中止する。1990年5月に史跡、1991年4月に特別史跡に指定され、1992年には閣議によって国営歴史公園の整備が決定したのです。
三内丸山遺跡
は青森県青森市の郊外にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前-4000年前)の大規模集落跡です。遺跡は江戸時代には知られており、この地に新しい県営の野球場を建設するため、事前調査が1992年から行われました。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本検出され、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。
見瀬丸山古墳
奈良県橿原市見瀬町、五条野町、大軽町にまたがった地区に存在する前方後円墳で、欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説が有力です。
古墳は、江戸時代から明治時代にかけて幾度か石室内部の調査が行われ、宮内省によって後円部上段の一部が陵墓参考地に指定されていました。1991年、橿原市在住の児童が遊んでいたとき、陵墓参考地を囲った柵の外に横穴式石室羨道への入り口を発見しました。この話を聞いた父親は、5月30日早朝、子と共に中に入り、石室内部を撮影し、この父親から連絡を受けた大阪の朝日放送は、撮影写真の解析をおこなったのです。その結果、江戸時代の記録通りに配置されていた家形石棺は、手前の石棺は6世紀の第3四半世紀に、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀に造られたと推定され、石室正面を構成する花崗岩の石は、石舞台古墳の75トンをしのいで、重量が100トンを越える巨石であることがわかりました。石室はその石積様式から6世紀末から7世紀初めに構築されたと考えられています。
その後、12月26日テレビ朝日のニュースステーションの番組内においても撮影された30枚の写真が放送されました。これは本物の天皇陵内部を見ることができた数少ない事例となりました。1992年8月10日から9月15日まで、宮内庁書陵部によって簡単な実測調査が行われ、開口部は閉塞されました。
・探査による発見
遺跡を発見するために探査を行う場合があります。探査を行う目的や動機はさまざまです。その一つは、開発や工事、資源の掘削などに伴う緊急調査で、まずは対象地域に遺跡が存在するかどうかの探査を行います。また、学問的な目的を持って探査行うこともあります。ホメロスの記述をもとにトロイを発見したシュリーマンの例や、聖書の記述に出てくる都市を確定しようとする例などは文献資料をもとに遺跡を発見しようとするものです。また、考古学的な問題を解決するために行う場合もあります。そのほか、遺跡地図を作成して、将来の開発や研究に備えるための探査も行われています。
探査は地上での探査( 探査)、上空や宇宙からの探査(空中探査)、そして水中での探査(水中探査)に分けることができます。
地上探査は、もっとも基本的な探査方法です。中でも、歩いて遺跡のありそうな地形を見つけ出し、地表に顔を出している遺物や遺構の跡を見つける踏査は、もっとも単純で昔から行われる方法ですが、大変有効です。もともと一人または数人で踏査していましたが、現在ではもっと組織的に行う場合もあります。大勢の人が等間隔で並び、一斉に踏査を行って、遺物や遺構の分布地図を作成します。
地中の遺物・遺構を探す方法として、地中の探査を行う場合もあります。横穴墓群などを探す場合は、尾根に並んで一斉にボーリングステッキを突き立てて、地下1mほどを探査しながら進んでいく方法もあります。中国では「洛陽さん」という5m近い棒を突き立てて遺構を探す方法が用いられています。
科学技術を利用して地中の探査を行うこともあります。振動を起こし、その伝わり方の違いから遺構を探査する方法や、電磁波を用いる方法、電気抵抗の違いによって遺構を探す方法などがあります。そのほか、磁気探査・金属探知機などさまざまな方法が用いられています。
空中探査は飛行機やヘリコプター、宇宙船からの写真をもとに遺跡を発見する方法です。この方法は、広大な地域を一度に観察することができ、大きな遺跡の範囲や形の確定などに利用されます。中でも万里の長城や城郭都市、都市と都市を結ぶ道やキャラバンルートの跡、遺跡同士の関係や遺跡と景観の関係などを探査するためには有益です。
空中から遺跡を判断するには、構築物が地表から顔を出しているアースワークと、溝などの遺構が地中に埋まってしまい、遺構を覆った覆土と周りの土との色の違いによって判断するソイル・マーク。そして、地中の遺構を覆う土の深さや養分の違いによって植物の生育が違ってくることを利用して遺構を見つけ出す( ・マーク)があります。
宇宙からの写真は万里の長城やカンボジアアンコール遺跡など大規模な遺跡を把握するのに便利です。近年ではgoogleなどの地図が利用しやすくなりました。
水中の考古学調査は、地上とは違う環境で行われる調査で、特殊な技術や方法が用いられます。水中の遺跡をさがす探査は、難破船や水中に沈んだ遺跡を探すために、ソナーなどを用いて行われています。クレオパトラの頃のエジプトの都であったアレクサンドリアは、近年海中から発見されたことで一躍脚光を浴びています。
近年ではこれら遺跡の情報をGISという地理情報システムを利用してコンピュータ処理するようになりました。これによって、いろいろな情報を地図上に載せ、必要なときに必要な情報を検索して引き出すことができるようになりました。
遺跡探査の結果は将来、開発や発掘が行われるときのもっとも基礎的な資料となるため、非常に重要な調査の一つです。
遺跡の発掘
遺跡の発掘は、化学の実験にあたる、考古資料を収集する最も重要な行為です。しかし、化学の実験と異なるのは、実験は何度でも行うことができますが、発掘は基本的には一つの遺跡に対して、一回しか行うことができず、失敗しても二度とその遺跡をもとの状況に戻すことができません。発掘は遺跡破壊の一種なのです。発掘を行う者はそのことを肝に銘じ、責任を持って、慎重な調査と十分な記録を残さなければならないのです。日本では開発のために年間7000件以上の発掘調査が行われ、ほとんどの遺跡が破壊されて新しい建築物などが建てられています。原始・古代の遺跡を新しく作ることはできません。その数には限りがあります。このまま破壊され続けると、私たちに原始・古代の様子を知らせてくれる遺跡は、この世から全くなくなってしまうことになります。
発掘の方法は遺跡の種類によって多様です。
しかし、考古学の調査の基本はみな同じで、遺構や遺物の出土した状況をでXYZ軸で空間把握することです。
予備調査
( 調査) 遺跡の探査調査で、どこにどのような遺跡があるかを把握する。
測量調査 遺跡やその周辺を測量することによって、遺跡の状況や形状、その立地環境 を地図に残す。
試掘調査 遺跡の一部と発掘して遺構の正確な範囲や位置、具体的な性格を把握し、本調査の方針をたてるための資料とする。遺跡の性格に合わせ、試掘区を任意に設定したり、遺跡に設定された方眼( )にあわせて設定し調査する。層位の確認と層位ごとの遺構・遺物を確認する。
・トレンチ調査 長方形の溝を掘ってみる調査
・試掘抗 任意の大きさや遺跡にかけられた方眼(グリッド)などにあわせた正方形に掘ってみる調査
本調査
調査の方法は遺跡の種類によって多様だが、ここでは代表的な発掘方法である集落の調査と古墳の調査について記す。
集落の調査
調査の方法は遺跡の種類によって多様だが、ここでは代表的な発掘方法である集落の調査と古墳の調査について記す。
集落の調査
発掘しようとする遺跡には緯度経度に合わせて方眼を設定し、遺跡の位置を明らかにする。磁北を基準にして任意に設定する場合・遺構にあわせて任意に方眼を設定する場合もある。
表土の掘削
耕作土や地表面などを、グリッドにそって畦( )を残しながら、遺構を確認できる面まで掘削する。
↓
理論上は遺構を確認できる面は、当時の人びとが生活していた生活面を若干掘削した面となる。
↓
遺構を確認したら、ベルトのセクション( )を写真撮影・実測して掘削する
↓
遺構の確認写真撮影
↓
遺構にあわせて十字にベルトを残し、掘削を始める
↓
遺物はできるだけその場所に残すため、遺物の下を土柱にする
↓
遺物の出土状況の写真撮影・平面図作成
↓
遺構と共伴すると思われる遺物や遺存状況がよい遺物、時期のわかる遺物など、多くの情報を提供してくれる資料高い遺物を残して他の遺物の取り上げ
↓
ベルトの写真撮影・セクション図作成
↓
遺物を残してベルトの掘削とベルト内の遺物の図面作成
↓
資料価値の高い遺物の出土状況写真撮影・平面図作成・エレベーション図作成
↓
資料価値の高い遺物の取り上げ
↓
柱穴などのピットを掘削・セクション写真撮影・セクション図作成
↓
遺構の平面写真撮影・平面図作成
↓
遺構の下をベルトに沿って掘削(遺構の作り方を観察)セクション写真撮影・セクション図作成
↓
完掘
↓
より下の層の遺構を確認するために畦を復元して掘削
古墳の調査
草刈り
↓
測量
↓
トレンチの設定 主体部掘削区の設定
↓ ↓
トレンチ掘削 主体部掘削
↓ ↓
セクション図・写真 ベルトのセクション図・写真
↓ ↓
遺物の出土状況図・写真 遺物の出土状況図・写真微細測量 写真
↓ ↓
遺物の取り上げ 遺物の取り上げ ふるいかけ・水洗
↓ ↓
平面測量 平面測量・完掘写真
整理作業
遺物の洗浄
↓
接合
↓
実測
↓
トレース 原稿執筆
↓
版組
↓
報告書作成
何が残っているのでしょうか?
考古資料とは、人類の過去を知ることができるあらゆる物質
↓
人類が製作・使用・消費し、破棄したり放棄した物質→アーティファクト(人工物) 人類が生活した環境を復元できる物質も考古資料となる=花粉など→エコファクト
不動産=遺構
墓( )防衛施設(万里の長城)神殿(オリンポス神殿)集落・都市 灌漑システム 採集場 採掘場 狩猟場 耕作地 戦場 道など
自然景観
歴史景観
動産=遺物
道具・製品 石製品 金属製品(青銅器・鉄器・非鉄金属) 土製品 植物製品(木 製品・草製品・根・蔓)骨製品・革製品など
遺存体 鉱物 動物 植物 人類など
遺跡=これらが有機的に結合したある一定のまとまり
遺物や遺構はそれが置かれた環境によって遺存する状況が違う
遺構→自然破壊 光・風・水・土壌・化学物質・植物・動物・昆虫・腐敗菌・カビ・自然災害による崩壊
人為破壊 人間による破壊 (開発・宗教観・戦争・故意(いたずら・盗掘など)・不慮の事故・人工的化学物質)など
無機物 金属器・石器や土器→比較的よく遺存する
石器 良好に遺存→考古学の主要な研究の領域
土器 比較的良好に遺存→考古学の主要な研究の領域 風化しやすい
金属器 種類によって遺存状況が異なる→金・銀・鉛は良好、銅・鉄は残りが悪い
有機物 木器・骨・植物製品・ 革製品・動物遺体・人体など→残りにくい
日本 酸性土壌→骨や植物など有機物が残りにくい
大陸 アルカリ性土壌→骨が比較的よく残る
特殊な環境による遺存の例
湿度
海中 ( )などの沈没船
金属を金属製塩類(塩化物・炭化物・硫化物など)の幕でコーティングしてしまう
泥炭地・低湿地などの湿気
アメリカ・ワシントン州オゼッテ遺跡
1750頃 大規模な土砂崩れでネーティブ・アメリカンの捕鯨者集落(マーカー・インデアン)の一部が埋まった。
子孫はこの事件を記憶しており、保護を求め、発掘が行われた
↓
シーダー材で作られ、飾りのある建築材などを使った21m×14mのロングハウス数棟
炉・調理台・寝台・マット
五万点の遺物→半数以上が木や植物を材料とした遺物
鳥浜貝塚 福井県若狭町所在
縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000~5,000年前)の集落遺跡で、保存良好な木製遺物等1376点が国の重要文化財に指定されている。
馬王堆墓
中国湖南省長沙(ちょうさ)市郊外の馬王堆で発見された漢墓。1号墓は泥「半両」銭が出土しているところから、武帝以前の文帝代の紀元前168年と推定する意見が有力。墓中には「軑侯家丞(たいこうけじよう)」と記す封泥(ふうでい)が発見され、1号墓にはほとんど完全な女性の遺体があり、皮・肉の軟組織と内臓が良好に保たれていた。
ヴェンデバイ
約2000年前の目隠しされた少女の溺死体
アイスマン
1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷(ドイツ語: Ötztal; 海抜3210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラ。
2001年にX線撮影で左肩に矢尻が見つかり、これが死因である可能性が高まった。部族間の争いに巻き込まれ、山を超えて逃亡していた最中に死亡したという説がある。周辺植物の分析から、標高700mの麓に居住していたと推定されている。死亡時季は晩春と推定されている。
乾燥 有機物を乾燥保存する
ツタンカーメンの墓
古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。
1922 ハワード・カーターとカーナヴォン卿によって調査された。
ほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクなど、数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
ツタンカーメンの死因は、DNA鑑定やCTの調査で、骨折と、マラリアが重なって死亡した可能性が高いことが分かった、
考古学はいつの時代を扱うのでしょうか?
-年代の決定法-
考古学は人類の過去を物質から考証する学問
↓
対象年代・・人類の発生からすべての過去→理論上は( )も含まれる
↓
もっとも考古学が活躍する時代は文字資料が残されていない原始・古代
中世考古学・近世・近代・現代考古学もある
鎌倉→鎧の研究 やぐらの研究
江戸時代→大名屋敷の調査・寛永寺の調査
近代→新橋駅の調査
現代→戦跡考古学など
いつ when
どこで where
だれが who
何を what これらを知ることが重要
なぜ why
どのようにして how
どうした
↓
時期を決めることが基礎作業となる=同じ時期のものをみつけだす
↓
前の時期のもの、次の時期のものを見つけ出し、それがどのように変化するかを調べる
年代はどのように決めるか
↓
相対的年代決定法 層位学・型式学
出土した遺跡や遺物の相互の関係を検討して年代を決める→考古学的方法
絶対年代決定法 理化学的年代決定・文字資料
自然科学的分析で年代を決める
紀年名など文字に残された資料から年代を決める
考古学に於ける層位学とは何でしょうか?
地層累中の法則
1785 スコットランドの地質学者ジェームス・ハットン『地球論』→地層累中の法則
↓
「下の層ほど古く、上の層ほど新しい」
↓
「下の層に含まれる遺物は古く、上の層に含まれる遺物ほど新しい」
=考古学的な相対的編年を作るもととなる
↓さらに
同じ層から出土した遺物は同じ時期のもの=共伴関係 一括遺物
共伴=放棄・破棄された時期が同じ・・・使用された時期が同じ・・利用状況
一括遺物=ひとまとまりとして扱うことができる遺物・・出土の状況
↓
自然科学的方法を利用するにも必要な情報
地層同定の法則
地層同定の法則=1816年、イギリスの土木技師ウィリアム・スミスが、著書『Strata Identified by Organized Fossils』で主張した。同時期に堆積した地層にはそれに特有な化石が含まれ、その化石によって地層の時間的位置や、離れた地域間において同一時期に堆積した地層を同定できるという法則。地層の年代を決定する化石を「 (示準化石)」とよぶ。 ↓
考古学では標準化石のかわりに土器などの遺物をもちいる。
↓
同じ遺物が含まれた地層や遺構は同一時期に形成された
発掘調査は層位を明らかにし、遺物・遺構の相対的先後関係や共伴関係を証明できるように行われる。
「鍵層」
火山の噴火や洪水などによって形成された地層は時期が特定できる場合がある
↓
この地層を「 」と呼び、時期判断する重要な層となる
火山灰は含有されるガラスの種類や鉱物の組成により資料を同定できる→示標テフラ
AT AMS年代 24~25000年前に鹿児島県姶良カルデラが噴火し、火山灰を噴出した。この火山灰が全国的に降下し、朝鮮半島でも見つかっているこれをAT(姶良丹沢火山灰)と呼び、後期旧石器の鍵層として利用している
宝永の火山灰 宝永4年11月23日(1707年12月16日)富士山が噴火した。大量の黒色の火山灰を広範囲に降らせ、現在もその痕跡を見ることができる。
↓
江戸時代の発掘調査の鍵層
考古学に於ける層位学とは
↓
遺物や遺構の時期を確定し、他の遺跡と比較するだけではなく、遺構の成り立ち( 論)を明確にするための重要な理論
遺跡で必要な層位とは
1.遺跡全体の層位柱状図=遺跡の標準的層位
↓
他の遺跡との比較
2.遺跡とその環境を含む広範囲な層位
↓
遺跡の成立と消滅を知るため
3.遺構ごとの層位
↓
遺構の形成と消滅・遺構間の関係を知るため
注意 層位を乱すは人間だけではなく動物や昆虫・植物・細菌・水・浸食などがある ↓
注意が必要
型式学とは何でしょうか?
形式学とは遺物や遺構など考古資料の分類方法
↓
人間は社会的動物で、集団を形成して生活している=人間という動物の「生存戦略」
↓
人間が形成している集団では、お互い共通の意識のもと、礼儀作法や、ものの作り方・道具の使用・お祭り・葬送儀礼など共通の行動様式をとる。
↓
個人はその所属集団に意識的に、もしくは無意識に規制されて行動する
↓
この共通の行動様式を文化と呼ぶ。
従って制作され使用された考古学資料は、それを制作し、使用した人間の所属する集団の行動様式が反映されており、同じ文化を持つ人間は、類似性のある物質を作成する
↓
考古学者は考古資料を分類し、類似性を持つ遺物を一まとめにするとによって、同じ文化を持つ集団を見つけだそうとしている。
よって考古学では考古資料を分類することが大変重要な作業となる。
モノの製作者はある特徴を思い描き( )、それを具現化しようとしてそれぞれの個体を製作した→モデルは社会によって規制されている
↓
その特徴(モデル)のうち、研究者が注目した特徴を抽出して構成した概念=型式
↓
この型式を一定の原理に従って整理配列することにより分類体系が形成される
↓
型式を一定の原理に従って整理配列する研究=『型式学』
・モデルは製作者が所属する集団の規範や行動様式(祭り・礼儀作法・物作り・使い方・排便方式など)に規制される
・モデルの具現化は製作者の個人的な癖などの条件によって左右される→基本的に集団 の行動様式から逸脱しない
↓
資料の類似性は特定の集団の特徴(モデル)であり、これを型式として人間の行動や精神文化を復元することができる
考古資料を分類するための尺度は「機能」と「空間」と「時間」。
・機能
「形式(form)」
機能や用途に基づく分類を「形式(form)」とよぶ。
煮炊きをする鍋、食べ物を入れる皿、貯蔵用の壺、液体を注ぐ水差し、大量に貯蔵するための大甕などに分類すること。→あとで説明する「型式」との違いを明確にするために、器種と呼ぶこともある。
・空間
「分布」
同一形式、同一時期の遺物の空間的広がりを「分布」とよぶ。
↓
同一形式の遺物の広がりは、それを使用する同じ行動形式を持つ人々の広がりを示す。
*分布は一般に、中心地域から徐々に粗になる傾向を示し、中心地域と周辺地域をあらわすことになる。
移住などによって人々が動きを示すと、分布の時間的変化にその動きが反映される。
ただし、各形式が同一の分布範囲を示すとは限らず、各遺物の分布は複雑に交錯してる。
「スタイル」
同一形式、同一時期においても中心部と周辺部、もしくは周辺部同士では若干の形の違いを細分としてとらえられることがある。これを「型式(type)」と呼ぶが、後述する時間的変化の「型式(type)」と用語が同じで、混同しやすいのが現状。
↓
したがって、私はこれを「スタイル(style)」と呼ぶことをことを提唱したい。
現在、styleは「様式」と訳されているが、ここでいうstyleは日本語の様式ではなく、あくまでも「スタイル」と訳したい。
定義=「スタイルとは、同一時期の同一形式に属する物質の形式的特徴による細分で、地域差によるもの」
・時間
「型式(type)」
時間軸を形成するもの=「型式(type)」
型式とは「同一地域、同一形式に属する物質の形式的特徴による細分で、時間によって変化するもの」
「組列(seriese)」
考古学遺物から時間的変化をとらえる方法はスウェーデンのモンテリウスによって提唱された。
チャールズ・ダーウィンの生物進化論にヒントを得て、古典的型式学を提唱
モンテリウスは、
1,人為物も生物学と同じように区別できる。
2,生物の進化と同じように人為物も系統的に進化する
という法則を提唱し、人為物の系統的進化を「組列(seriese)」とよんだ。つまり、組列とは人為物の系統的な流れ。
この組列(seriese)の変化のなかに型式を設定する。
組列は「型式変化」や「形態変化」と呼ばれることもある。
ところで、組列はどちらからどちらへ変化するのか、にわかには分からない場合がある。
↓
組列の方向を決める方法が必要
↓
組列の方向とは、どちらが古くて、どちらが新しいかを決めること=「時間の経過する方向」
組列の方向は次の5つの方法
・層位学的方法
「地層累重の法則」→下の層から出土した遺物は古く、上の層から出土した遺物は新しい。
・痕跡器官(ルジメント)
痕跡器官とは、生物学の「退化して本来の機能を果たさなくなった器官で、わずかに形だけがそれとわかるように残っているもの」のことで、尾てい骨や男性の乳首など。また、背広の袖のボタンや胸のボタンホールなど、人為物にもしばしば見ることができる。
↓
考古学の痕跡器官は、時間が経過するとともに、機能的なものから機能を持たない単なる飾りへ変化→これを見つけることによって組列の方向をきめる。
・流行(fashion)
現代でも、服装など、多くの人為物に見られるように、人々は時として機能とは関係なく、そのときの趣向によって人為物の形を変化させる。これを「流行(fashion)」と呼ぶ。この流行をとらえることによって組列の方向を決定する。
・セリエ-ション
モノは古いモノから新しいモノへ徐々に置き換わっていく=セリエ-ション
↓
数量的にあらわすことができる
・共伴関係
発掘調査をしていると、住居址や古墳の主体部などの遺構の中で、明らかに同一時期に使用されたと推測できる、複数の遺物が発見される場合がある。これらの遺物を一括遺物と呼び、「これらは供伴している」という。組列のわかる標準遺物と供伴している遺物を見つけ出すことによって、いままで分からなかった組列を見つけ出すこともできる。また、一括遺物は、当時の人々が、一時期に何を使っていたかを知ることができ、彼らの生活を考える上でも重要。
・交差年代法(closs dating)
ある文化圏の遺物が、他の文化圏から出土することがある。これは人々の交流をあらわすとともに、お互いの文化圏がほぼ同一の時期に存在していたことを示す場合がある。これによって、お互いの文化圏を比較することができる。これを交差年代法(closs dating)と呼ぶ。
↓
実際に組列を決定するときには、これらの方法を組み合わせて決定する。
・文化
「様式(yoshiki)」
「様式(yoshiki)」は日本独自の考え方で、いままで、styleと訳されていが、英語のstyleとは違う意味を持っている。したがって、「yoshiki」と書く方がよいと考える。様式(yoshiki)とは「同一地域、同一時期に行われた一群の形式のまとまり」のこと。
↓
同一地域で同一時代に形成された形式のまとまり(様式)は、お互いに補い合って人々の生活の要求を満たしており、これを共有する人々を「文化的集団」と呼ぶことができる。→様式とは、ある文化を持った集団を特定しようとしている。
このように、形式学とは、考古遺物や遺構を分類して考察する上で、最も重要な理論。
分類配列の基本
機能・時間・空間
機能による分類→形式
時間による分類→型式
空間による分類→スタイル
文化の特定→様式
理化学的年代決定法とは何でしょうか?
考古学ではいろいろな年代の測定法をもちいるが、ここではおもな科学的年代測定法を紹介する。
放射性炭素年代測定法
植物は光合成を行ない、体内に炭素14を取り込んでいる。
↓
取り込まれた炭素14は放射壊変して窒素14へと変化
↓
植物が生きて光合成をしている間は、体内での炭素14の濃度(炭素13や炭素12に対する炭素14の存在比)は一定に保たれる
また、その植物を食べた動物の炭素14も一定に保たれる
↓ところが
動植物が死んでしまう→新たな供給がない
↓
炭素14は時間とともに窒素14へと変化し、しだいに減少
その半減期は( )年
↓よって
炭素14の減少量を測定すれば、試料が遺体となった年代を推定することができる
大気中の炭素14の含有率が常に一定ならば、未補正のままの年代を使うことがでる
↓しかし
含有率は年代によって変動している
測定された年代は、本当の年代より新しい数値が出てしまう
↓そこで
年輪年代測定法と比較して、炭素14の年代の誤差を修正→較正
また、加速器を使うことによって微量の試料で年代が測定できるようになった
↓
この方法を加速器質量分析(AMS)法と呼ぶ
年輪年代測定法
木の年輪は一年に1つできる
年輪のでき方→その年の気候によって変わり、気候変動によって成長のパターンが決まっている
↓
調べたい木材の年輪の数を数え、成長のパターンを、既知の資料から作られたパターンと比較
↓
その木がいつ頃伐採されたかを知ることができる。
磁気年代測定法
地球の地磁気は年代によって変化
↓
炉や窯址など、焼けた土は過去の地磁気の方向を記録
↓
その方向を調べ、地磁気の永年変化図と比較することで年代を知る
弥生時代の新たな暦年代
以前の暦年代
早期は紀元前5~4世紀後半ないし紀元前3世紀初頭、前期を紀元前4世紀ないし紀元前3世紀初頭~前2世紀、中期は紀元前2世紀~後1世紀、後期は1~3世紀
↓これらは
中国や朝鮮半島から出土する鏡の編年と照合
銅剣の編年を考察
↓年代がはっきりしているもの
・長崎県原の辻遺跡や大阪府瓜破遺跡→後期初頭の遺物と供伴した中国の「 」
↓
貨泉は、中国の新を建国した王莽が鋳造させた貨幣
新は8年から23年の15年間しか続かず、貨泉が鋳造された時期は、この間に限られている
↓したがって
弥生の後期初頭は1世紀ということができる
・後漢を建国した光武帝は、57年、奴国の使者に対し「 」の印綬を渡した→『後漢書』東夷伝に書かれている
↓
印が福岡県志賀島から出土
・中国の『魏志』倭人伝 卑弥呼が239年に使者を送った
↓
弥生時代後期末から古墳時代初頭
・佐賀県宇木汲田遺跡で、板付Ⅰ式の土器を出土する層位から出土した炭化米が、放射性炭素年代測定法によって、紀元前275年と測定
↓
弥生時代前期は紀元前3世紀とされた
↓
この測定は較正を行なっていない
・弥生時代中期後葉の大阪府池上曽根遺跡から出土した柱
年輪年代測定法で、紀元前52年と測定
↓
弥生時代の中期の終わりが紀元前1世紀
新しい暦年代
2003年、歴史民俗博物館の研究チーム
↓
弥生時代の土器についてAMS法による放射性炭素の測定を較正した結果を発表
↓
九州北部の弥生時代早期と前期
夜臼Ⅱ式と板付Ⅰ式の土器に付いた「お焦げ」や「ふきこぼれ」などを計測
↓その結果
11点の資料のうち10点から紀元前900~750年の年代を示す
↓
北部九州の弥生時代早期は紀元前1000年ごろにまでにさかのぼる可能性がでてきた
春成秀爾
早期を紀元前10~9世紀
前期は紀元前8~4世紀
中期は紀元前4~後1世紀
後期を1~3世紀
↓
日本の水稲耕作は、中国「 」王朝の成立に伴い、亡命してきた渡来人によってもたらされた
また、列島各地への広がりも、急速なものでなく、その開始から数百年ほどかけて緩慢に、日本列島各地に普及・定着
↓しかし
問題点
鉄器は紀元前10世紀頃中国では隕鉄が利用されている状況
朝鮮半島では、その出土例がない
↓ところが
日本では、福岡県曲り田遺跡から弥生時代早期の板状鉄斧が出土
↓
中国や朝鮮半島よりも早く鉄製品が普及していることになる
この鉄斧は焼きなまして脱炭した鋳造品で、その技術は、中国では戦国時代の紀元前5世紀にならないと出現しない
↓
現在のところ、どちらの年代観が正しいのか結論は出ていない
モノはどのように使われたかどうしてわかるのでしょうか?
-機能・用途-
考古学→過去の人びとの行為を物質的痕跡から復元する
↓
遺物・遺構・遺跡という考古資料(モノ)の機能・用途を探ることが重要
機能=モノが持つ固有の役割→モノが作られた目的
用途=モノの使われ方
↓
モノは機能とは別の用途に用いられる場合がある
↓
モノの用途や機能を明らかにするだけではなく、その背景をも調査する
道具の対象物・装着のされ方・運動方向・有効性耐久性・使用者の性別年齢階級・労働形態など
機能認定方法
1.現代の感覚・経験に基づいて認定する
2.民俗(folklore)資料・民族(ethnology)資料・文献史料(documents)から類推する
3.遺物自体の細部観察・分析によって認定する
4.出土状況の観察によって認定する
5.製作実験・使用実験から類推する(実験考古学)
↓
これらの方法を組み合わせて認定することが重要
1.現代の感覚・経験に基づいて認定する
現代でも使われているモノが多くある→器・下駄・筆・大工道具・弓矢・釣り針など
↓
ジェネレーションギャップや地域差・生活習慣の違いによって認定能力に違いが出る
2.民俗(folklore)資料・民族(ethnology)資料・文献史料(documents)から類推する
民俗学・民族学の研究成果を利用する方法
考古学者が自ら民俗・民族例を調査する方法(民族考古学)
↓
古代の祭祀遺跡出土の人形→穢れを移して流す
↑
神社の紙の人形を流す「流し雛」の風習から類推
文字史料
「古事記」「日本書紀」などの文献
土器にヘラが書きで「塩」などと内容物を書いてある
木簡・漆紙文書
絵巻物・銅鐸の絵
民族考古学(エスノ・アーケオロジー)=ルイス・ビンフォード
北アラスカ イナミュート・エスキモーの調査
食料の種類・キャンプの大きさ・小屋・炉にあつまって生活する成人と子供の数・ゴミ捨て場の位置や内容物など
↓
考古資料と参照する
3.遺物自体の細部観察・分析によって認定する
土器の使用痕分析
口の部分に炭化物が付着したカワラケ→灯明皿と推測できる
石器の使用痕分析
1 微小剥離痕→刃こぼれ
2 光沢(ポリッシュ)
3 線状痕 石器の動きを推測
4 摩滅 量的なすり減り
5 破損 規模の大きな使用痕
6 残滓(ざんし)対象物の残りかす
↓
運動方向・対象物によって痕跡が違う
石庖丁→コーングロスの付着
4.出土状況の観察によって認定する
炉に置かれた土器→煮炊きに使用
竈の煙道に置かれた土器→煙突に使用
骨に刺さった石器→狩猟
人骨に刺さった石器・青銅器→武器
5.製作実験・使用実験から類推する(実験考古学)
人間の行動→パターンを持って行われる
↓
同じ集団が作った道具には特徴がある
↓
道具は用途によって形が分かれる
↓
使用される段階でも一定のパターンを示す
↓
一定の使用痕を残す
↓
実験によって使用痕を再現し、人間の行動を復元する
オックスフォード大学 キーリー
金属顕微鏡をつかいポリッシュを観察
↓肉・木・皮など加工した対象物によってポリッシュが違う
石器の対象物を特定
↓
イングランド・クラクトン遺跡などの前期旧石器の使用方法を分析
前出の石庖丁も実験考古学の例
土器の焼成実験
製作例・使用例から人間の行動や社会の復元へ
考古学における分布論って何でしょう?
分布論=遺跡・遺構・遺物もしくはその組み合わせの空間的広がりから物資の流通・文化の交流・伝播を考察する
↓
自然科学的分析・空間情報科学的手法の支援
↓ ↓
産地同定など 三次元計測
分布→遺跡内の分布=ミクロ 遺物遺構の機能を知る・個人の作業の特定など
広域な分布=マクロ 伝播論 文化論
ミクロの研究
ルイス・ビンフォード
1969・1973 アラスカのヌナミュート・エスキモーを研究し、狩猟採集民がどのように道具や骨を破棄するかを観察=民族考古学
↓
炉の周りに座って座ったところの近くに小破片が飛び散る「ドロップ・ゾーン」
大きな骨などは前と後ろに捨てる「トス・ゾーン」
↓
フランス・15000年前の旧石器時代のパンスヴァン遺跡の理解に応用
山口県土井ヶ浜遺跡の研究
一つのムラはどのようにしてまとまっていたのでしょうか。
ムラの構成を考える上で土井ヶ浜遺跡は大変重要な遺跡です。弥生時代前期の墓地である土井ヶ浜遺跡は、貝のカルシウム分の多い海岸の砂地に造られていたため、日本では珍しく、数多くの人骨が、非常に良い保存状態で出土しています。この墓地に葬られた人々の多くは抜歯をしています。抜歯は、その人の出自や所属集団などによって、抜く歯の場所が違います。この抜歯の研究により、土井ヶ浜遺跡を形成したムラの人々は、母系制の社会で、男女同権か男性が権力を持つ状況だったことを明らかにすることができました。(古庄浩明2001「土井ヶ浜遺跡の社会構造」『山口考古』第21号山口県考古学会・古庄浩明2005「土井ヶ浜遺跡とその社会」『季刊考古学』第92号雄山閣)。
さらに、ムラは婚姻によってお互いを補完する半族的数集団で構成され、有力集団は家長を中心としたヒエラルキーを形成し、各集団は有力集団のヒエラルキーを模倣した墓制をとっていることがわかりました。土井ヶ浜ムラの人々は、半農半漁の「海の民」だと思われます。このムラのリーダーは、海の交易ルートを確保・維持し、南海産の貴重な貝の腕輪などの産物を入手して、これをムラを構成する家族(世帯共同体)の家長たちに分け与え、各家長はそれをみんなに分けていました。その恩恵にあずかった見返りに、人々はリーダーに奉仕して、ムラを維持してたのです(古庄浩明2007「土井ヶ浜遺跡の祭祀と社会」『原始・古代日本の祭祀』同成社)。
つまり、土井ヶ浜村では、マスオさん(長谷川町子 漫画『サザエさん』長谷川町子美術館)のように、婿入りしてきたお父さんに権限があり、村全体が何らかの形で親戚どうしだったと言うことです。そして土井ヶ浜村の村長さんは、ムラをまとめるために、沖縄付近でしか採れない貝で作ったブレスレットなどの貴重な宝物をみんなに分け与えていたのです。
マクロの研究
小林行雄 同笵鏡論
GISを活用した分析→三次元デジタル地図の活用
邪馬台国はどこでしょうか?
8,卑弥呼の墓は?
『魏志』倭人伝に記された邪馬台国は、3世紀の日本あったクニの一つです。『魏志』倭人伝とは、3世紀末に書かれた中国の正史で、筆者は西晋の陳寿です。正式には『三国志』魏書東夷伝倭人条といい、30巻ある「魏書」の中の、わずか2000文字程度の条文です。しかし、そこには邪馬台国までの道程、邪馬台国の社会と習俗、魏との外交などが記されており、当時の日本の状況を知ることができる、貴重な資料であると同時に、現在も解き明かすことができない、謎を秘めた文書なのです。とくに問題となっているのは、邪馬台国の位置で、九州説と畿内説があることは皆さんもご存じでしょう。
a邪馬台国への道
『魏志』倭人伝には「倭国に着くには帯方郡から船で7000余里で狗邪韓国に着く。そこから1000余里海を渡り対馬国に着く。そこから南に1000余里海を渡り一支国に着く。また海を1000余里渡ると末廬国に着く。東南へ500里陸を行くと伊都国へ着く。東南へ100里行くと奴国に着く。東へ100里行くと不弥国に着く。南へ船で20日で投馬国に着く。南に船で10日、陸を1ヶ月行くと邪馬台国に着く」と、中国から邪馬台国までの行き方が書かれています。この記述の通りに行くと、邪馬台国は九州を越えて太平洋の海上になってしまいます。
では、記述が全く間違いかというと、そうでもなく、記されている狗邪韓国は朝鮮半島南部、対馬国は対馬、一支国は壱岐、末廬国は松浦郡、伊都国は糸島郡、奴国は博多付近と特定できており、そこまでの道程は、ほぼ合っています。不弥国・投馬国・邪馬台国の位置が問題だということなのです。
b九州説では
九州説では、伊都国までは連続式で読み、伊都国から先は放射式の読み方を採用します。つまり、伊都国までは、次の国まで船で何日と読み、伊都国から先は、どこの国も、伊都国からどちらの方向に、どう行くという書き方だと解釈するのです。また、邪馬台国の道のりに限って「南に船で10日、陸を1ヶ月行く」と書かれていることから、これを、船ならば10日で、陸を行けば1ヶ月で行くと、2つの行き方が記されていると解釈し、邪馬台国は、九州のどこかということになります。
c畿内説では
一方、畿内説は、行き方は全て連続式に書かれているが、方向を間違ったと解釈します。つまり、東へと書くべきところを、南へと書いてしまったというのです。こうすれば、伊都国から東へ奴国、さらに東へ不弥国、投馬国、そして、投馬国から邪馬台国には、「東へ船で10日、さらに陸を1ヶ月行く」ことになり、邪馬台国が畿内周辺の地にあることになります。
d九州説と畿内説の意味
九州説をとると、邪馬台国は弥生時代の一つのクニになり、ヤマト政権との関係は不明になります。畿内説をとると邪馬台国はヤマト政権へと続き、古墳時代の初頭にあたると考えられます。畿内説にも問題はあるのですが、近年、九州説は進展が見られません。考古学の世界では畿内説が有力なようです。
e私説「卑弥呼の墓」
それでは卑弥呼の墓はどこなのでしょうか。奈良県桜井市の箸墓古墳と考える研究者が多いようですが、わたしはちょっと違った意見を持っています。
景初3年(239年)、卑弥呼は親魏倭王の称号と印綬、そして銅鏡100枚をもらっています。240年には、魏の使いの難升米が倭にきました。邪馬台国は中国王朝の権威を借りて、連合国を治めようとしたことがわかります。その意味で、卑弥呼は、強大な権力を握っていたとはいえない状況です。
古墳から出土する鏡のうち、三角縁神獣鏡という鏡に、景初3年の銘のあるものがありました。鏡は一つの鋳型で幾枚も作ることができ、同じ鋳型によって作られた鏡を同笵鏡といいます。小林行雄はこの鏡の分布を調べ、三角縁神獣鏡が33面出土した京都府椿井大塚山古墳を中心として、各地の古墳に鏡が配られたという説を打ち出しました。同笵鏡論といいます。この論は邪馬台国の場所が畿内にあったという傍証となるだけではなく、前方後円墳体制の証明ともなる重要な理論です。
ところで、卑弥呼は亡くなったとき、大きな塚に埋められました。椿井大塚山古墳も大塚です。卑弥呼の墓ではないのでしょうか。 残念ながら椿井大塚山古墳は山背国にあり、畿内ではないのです。さらに、椿井大塚山古墳は4世紀前半の築造と考えられ、卑弥呼が亡くなった3世紀とは時期が合いません。
ところが近年、全長130メートルの奈良県天理市黒塚古墳から、椿井大塚山古墳と同じ数の三角縁神獣鏡が出土したのです。石室の盗掘穴からは、3世紀代の庄内式土器が出土して、黒塚古墳は箸墓古墳より古い古墳だとおもいます。では黒塚古墳が卑弥呼の墓でしょうか、これにも少し問題があります。大和古墳群のうち、大王クラスの古墳は、一番上の河岸段丘上に構築されていますが、黒塚古墳は2番目の段丘上に構築されており、トップクラスの古墳ではないのです。しかし、これによって、三角縁神獣鏡が畿内を中心として配布されたと考えてもおかしくないことが証明されました。
卑弥呼の時代、この地域に築造されていた墳墓は、ホケノ山古墳、纒向石塚、中山大塚古墳です。ホケノ山古墳は、箸墓古墳の隣に築造されている古墳で、石囲い木槨と呼ばれる、後の竪穴式石室つながる埋葬構造を持っています。この古墳からは、三角縁神獣鏡より古い、画文帯神獣鏡が出土していますが、三角縁神獣鏡は出土していません。卑弥呼以前の王の墓だと考えられます。
纒向石塚は周溝しか残っていませんが、墳形や出土している土器は、ホケノ山古墳より若干古いようです。
したがって、わたしは、大塚という名称ですし、中山大塚古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています。中山大塚古墳は、黒塚古墳と同じ130メートルで、主体部は盗掘されて残っていませんが、墳丘から、卑弥呼と同じ時代の土器が出土しています。大和古墳群の一番上の河岸段丘上に位置していますから、大王クラスでよいと思います。
中山大塚古墳を卑弥呼の墓とすると、比較的近くにある黒塚古墳は、卑弥呼の墓と同じサイズの古墳で、セカンドクラスの人の墓と考えて、実質的に政治を行なっていた男弟の墓と考えてはいかがでしょうか。
卑弥呼が亡くなってしばらくは国が乱れます。そして、それを統一し、安定した政権を形成したのが壱与です。彼女によって前方後円墳体制が完成され、その体制を維持したのが、ヤマト政権だったと考えれば、壱与こそ箸墓古墳に葬られた人物だったのではないでしょうか。
卑弥呼の邪馬台国は、古代史のロマンです。解き明かすことは不可能でしょうし、解き明かしてはならない気もします。しかし、みんながそれぞれ解き明かそうと努力をすることにこそ、ロマンといわれる由縁があるのです。
ところで、三角縁神獣鏡は中国では一面も発見されていません。さらに京都府福知山市広峯15号墳からは、景初4年銘の盤龍鏡が発見されました。実は魏の元号には景初4年はないのです。景初3年の次は、元号が替わって正始元年となります。中国で作られたとしたら、元号を間違えるようなミスを犯すでしょうか。また、黒塚古墳からの出土状況をみても、中国で作られた画文帯神獣鏡は遺体の頭部付近に置かれて、重要視されていますが、三角縁神獣鏡は棺の外に並べられ、明らかにランクが下の扱いを受けています。もし三角縁神獣鏡が中国鏡ならば、格下扱いをうけるでしょうか。三角縁神獣鏡は日本製なのでしょうか。そうなると、邪馬台国はどこなのでしょうか。