2010年11月4日木曜日

日本のはじまり-旧石器~弥生時代-

(教科書 古庄浩明2011『日本のはじまり』は和出版にて販売しています)
Ⅰ 日本までの道のり


1,人類の出現

a考古学とは?人類とは?

考古学とは人類が残した遺跡・遺物・遺構などの(  )から人類の行動・思考・生活様式・精神文化・社会組織などを復元し、人類の(     )を考察する学問



研究対象=「人類」→ 古代の生物や恐竜、地球の成り立ちなどは対象外

人類とは何か。生物学的にいうと、哺乳網霊長類(  科)の動物

サルからある一群が分かれて、しだいにヒトの特徴を持つようになった



サルみたいなヒト、ヒトみたいなサルがいた



どこまでがサルで、どこからがヒトなのかというのは非常に難しい問題



bヒトの特徴

ヒトと判断するための特徴

・(      )をする

 ・犬歯が比較的小さい

 ・サルに比べ(    )を持っている

 ・複雑な(  )を話す

 ・適齢期のメスが常に発情している(発情期の喪失)

これらはお互い密接な関係をもって発達してきた

直立二足歩行 二本の足だけで常に自由に歩き回る

     ↓

頭が背骨の上に乗って、首から背中にかけての頭を支える筋肉が小さくなる



手が自由に動くようになる



手の動き→大脳を刺激→脳の大型化

     ↓

   (   )の使用    可食食物の増加

 ↓ 強い顎が退化

頭部に脳の入る空間が広がり大型化に拍車

↓手に武器を持つことを考案する→ (  )の退化

言葉によるコミュニケーション=集団内での情報伝達・意思疎通が円滑



複雑な(    )の形成

社会生活の中で学習し、受け継がれていく生活様式を(文化)

人類だけが持つ大きな特徴であり、生物としてのヒトの生存戦略



考古学ではヒトの特徴である、直立二足歩行、(  の製作)、火の使用、言語の使用、(  )での狩りの事実や痕跡を見つけることによって文化の存在、つまり「人間の証明」する。



c最古の人類「トゥーマイ」

現在、最古の人類

 2001 ミッシェル・ブレネが中央アフリカチャド共和国で発見した頭部の人骨化石

  ↓

サヘラントロプス・チャデンシス 

愛称「     」(生命の希望)

700~600万年前 脳の大きさ360~370CC ↓

     チンパンジーとほぼ同じ

身長105~120㎝ 犬歯の縮小化

大後頭孔が頭骨の中心に近い 



    (      )



地質年代では新生代第3期中新世後期にあたり、気候変動により寒冷化・乾燥化が進んで、季節がはっきりと現れてくる。

森は林となり、さらに草原へと変化していく時期。



人類は中新世後期に生まれ、その後の更新世の氷河期と間氷期を乗り越えて、完新世の現代まで生存し、発展してきた。



2,猿人

a「南のサル」

類人猿から分離したばかりのヒト→猿人(猿人類)約700万年前~約250万年前

420万年前以降 「    」という意味のアウストラロピテクス属が出現

1942年レイモンド・ダートが南アフリカのタウリングで頭骨を発見



      アウストラロピテックス・アフリカヌスと命名



1974年アメリカ・フランスなどの研究チームがエチオピアで女性の全身の40%の人骨化石を発見→アウストラロピテックス・アファレンシスと命名

→愛称「    」

身長100㎝

年齢20~30歳

脳容量400CC





タンザニア ラエトリ



   足跡が発見

土踏まずがあり、直立二足歩行している

大 26㎝

小 16㎝

大の足跡を21㎝の足跡が歩いている。

全く他人の三人が歩いたという可能性もあるが、父親と子が手をつないで歩いた後を、母親が歩いたとも想像でき、ほほえましい家族の姿が浮ぶ。





b森の生活

イーストサイドストーリー



人類は環境の変化によって縮小した森林から追い出され草原で二足歩行するようになって誕生した



1994東京大学総合研究博物館 諏訪元

エチオピア アルディピテクス・ラミダスという猿人類の化石を発見

↓ 周辺の化石を調査=環境を復元

 人類は(  )や湖・森林などが混在する環境でに暮らしていた



なぜ、直立二足歩行しなければならなかったか?

仮説の一つ

「食料提供仮説」

約5000万~4000万年前 インドア大陸がアジア大陸に衝突



ヒマラヤ山脈が隆起→1000万年後 大気の流れが変わる



    アフリカの(   )

 人類は食料を森林だけではなく草原でも探すようになる

メスにとって子供を抱えて食料を探すのは大変

         ↓

メスは食料を多く運んでくるオスを好むようになる

 ↓

直立二足歩行して手を使い食料を多く運ぶオスに繁殖の機会が増える



人類は早い段階から(    )だった



一夫多妻ではメス獲得のためオス同士が争うため体格や犬歯が大きい方がメス獲得率が高くなる→オスとメスの体格差が大きくなる=ゴリラ



人類はオスとメスの体格差が少ない犬歯も小さい

一夫一婦だったから



決まった相手に食料を運び、子孫を残すことが可能



メスは食料を自分で調達せず多くの子供を産める=常に発情することができる



c頑丈型猿人と生存戦略

猿人にはいくつかの種類があった



パラントロプス属=脳容量600CC 下顎骨や臼歯が大きい

頬骨弓が張り出す 「丈夫型猿人」

                 がっちりした体格 ↓

「  型猿人」





パラントロプス・ロブストゥス 

ウルトラマンのような頭の骨=骨稜 大きな顎の骨を止める部分



堅い植物性の食物や根を食べていた



約270万~120万年前に丈夫猿人は生きていた

 

華奢型猿人は250万年前に姿を消して原人(原人類)として進化したが丈夫猿人は生存



原人と丈夫猿人の骨が近くで発見=お互い見知っていた可能性がある



なぜ華奢猿人は原人になり、丈夫猿人は生き残ったか?

約270万~120万年前=新生代第3期鮮新世(500万~180万年前)から第4期更新世(180万~1万年前)へと移行する時期



寒冷化・乾燥化が進み(   )が訪れる→気候が急激に変化

丈夫猿人→咀嚼力を高めて食べるものを増やし生き残りを図った→石器なし

華奢猿人の一部→脳容量を800CC以上に増やして(  )へ進化 頭脳を使って生き残こる ↓

       アウストラロピテックス属の一部や原人は石器を使っていた





3,気候変動とホモ属の出現

aホモ属の出現

約300万~250万年前 アフリカ→乾燥化 植生の変化 (  )の縮小

                          サバンナが広がる



草原で生きるため→足が伸び、身長が高くなり (      )に適応



                      (  )属の出現



                      私たちの祖先



1972 リチャード・リーキー ケニア北部トゥルカナ湖東部で頭部に丸みを持つ人骨化石を発見



       250万年前のホモ属



タンザニア 約175万年前 ホモ・ハビリス (  )を使用

約150万年前頃 ホモ属・アウストラロピテックス属とパラントロプス属が共存

ホモ属・アウストラロピテックス属だけが石器を使用



アウストラロピテックス属とパラントロプス属は消滅、ホモ属が進化



三属とも進化したが、アウストラロピテックス属とパラントロプス属は消滅した

二属は進化せず、ホモ属だけが進化した 不明



b脳と肉食

ホモ・ハビリス 頭脳を使って生き残りを図った人類の一つ

約240万年前 脳容量(  ) Cを超えて大型化

↓現代人 脳は全体重量の2% 消費エネルギー20から25%

 脳の維持に多くのエネルギーが必要



 (  )を多くするようになる

以前 まれにネズミなどの小動物を捕まえる程度

以後 サバンナで肉を探す



身体的に劣っている人類が草原で肉を手に入れる



肉食動物の食べ残しにありつく

約250万年前アウストラロピテックス・ガルヒ 石器を用いてウシ科の骨から肉をはぎ取り、骨を打ち砕いて骨髄を食べた

  ↓

骨髄は他の動物が食べることができない

他の動物が食べ残した最後の肉をあさる動物



4,原人

a「ナリオコトメ・ボーイ」

原人→約200万年前から約100万年前のホモ・エレクトス

ホモ・ハビリスは原人かは意見が分かれる



1984 ケニアで全身骨がほぼそろった人骨化石を発見



約160万年前のホモ・エレクトスの少年

出土地にちなんで「          」と呼ばれている

脳容量900CC

 足が長い

 身体から汗を出す=体温調節



体毛が薄いと考えられる



(   )の移動が可能

b原人の「出アフリカ」

2002年 グルジア 約180万年前 脳容量600CCの原人の化石人骨発見

石器とシカを解体した跡も発見



動物の後を追いかけて移動し、アフリカを出る



「       」であるアフリカを離れ、ユーラシア大陸に進出



アフリカを出た原人の足跡は、まだ不明

あまり寒いところにはいかなかったらしく、北緯55度より北ではまだ発見されていない



氷河期、ジャワ島などのインドネシアの島々は(      )と呼ばれ、ユーラシア大陸と陸続き



陸伝いに東アジアに到達した人類 (   原人)



2001年 日本・インドネシア共同研究グループ

サンブンマチャンで約180万年前のジャワ原人の頭部人骨化石を発見



         サンブンマチャン4号



約74000年前のスマトラ・トバ火山の噴火で絶滅

 約10万年前まで生きていた

 中国の原人との交流なし

 東南アジア・オセアニアの人びとの祖先ではない



2004 オーストリア・インドネシア共同研究グループ

フロレンス島 新たな人骨化石を発見

ホモ・フロレンシス

約18000年前 身長100㎝ 脳容量400CC ジャワ原人から進化

島嶼化現象・・・敵が少なく食料が豊富→身体が小型化



約12000年前の火山活動で絶滅



c北京原人

1921 アンダーソン 北京市周口店の洞窟から歯の化石を発見

1929  裴文中が約55~25万年前の頭部人骨化石を発見

石器や( )を利用

砕かれた動物の骨・原人の骨→(食人)の風習



日中戦争最中アメリカへ輸送する途中で行方不明

ワインライヒによる詳細な記録が遺存



研究の基礎となる

約170万年前 元謀原人

モンゴロイドの特徴 しゃべる状のくぼみを持った2本の歯

約60~50万年まえという意見あり



約60~50万年前 藍田原人 頭部と下顎骨

    礫石器も出土



東アジアにおける確実な人骨化石



原人はアフリカから東アジアへ、ヨーロッパへと広がりを見せた



コラム 火の使用と狩りの始まり、石器の制作

・火の使用

火の発見 (  )などの自然発火

たき火の跡→150万年前ケニアの(        )洞窟 野火の跡という意見あり

79万年前 イスラエル たき火 焼けた木片・石器・麦類・オリーブ

40~35万年前 フランス テラ・アマタ遺跡 ( )跡



焼くことで食べられるようになった食物が多数ある

病原体を減らし、(   )を防ぐ

火を囲んで暖をとり(         )を促す。

猛獣から身を守る

寒冷な(     )へ進出できた



・狩りの始まり

ネズミなどの小動物はとっていた→人類ははじめから狩りをしていた

自分より大きな動物を狙ってとる→(  )が必要

ドイツ北部ショーニンゲン遺跡 約40万年前の木槍と傷があるゾウ・ウマの骨が出土



     最初の狩りの例



・石器の製作  石器の製作→人類の指標の一つ

チンパンジーも道具を製作 しかし、人類のように鋭利で精巧な石器はつくらない



猿人のアウストラロピテクス・アフリカヌスとともに発見

約250年前 エチオピア ゴナ遺跡

片手で握れるほどの石を打ち欠いて作った

( 石器)→最古の出土例



石器の両面を打ち欠いたチョッピング・ツール

石器の片面を打ち欠いたチョッパー



ホモ・ハビリスやホモ・エレクトスにも受け継がれる

約100万年ほど伝統として続く

石の選び方・打ち欠き方を伝える→コミュニケーションが必要→(  )の使用が想定



このような石器を使う文化

オルドバイ文化(タンザニア・オルドバイ渓谷)

約140~15万年前 両面を加工した握斧(ハンドアックス)を製作



      アッシュール文化

ホモ・エレクトスや旧人(旧人類)の一部が使用

5,旧人

a旧人の出現

約50万年前 東アジアジャワ原人が生存していた頃

ホモ・ハイデルベルゲンシスの出現

脳容量1200CCを超える

アッシュール文化の石器を発展させる

アフリカからヨーロッパ・アジアの一部に広がる



ヨーロッパや中東では独自の進化=ホモ・ネアンデルターレンシス

約20~3万年前 ホモ・ネアンデルターレンシス

ヨーロッパから中央アジア

脳容量1600CC

身長170㎝

火を使う→寒いヨーロッパで生きることができる

(  )をまとった最初の人類

ビタミンDの生成のため紫外線を吸収→肌の色が( )



アフリカでは紫外線が強すぎて皮膚がんを起こす→遮断のため肌の色が黒



1953~57 イラク シャニダールでネアンデルタール人が発掘

その一人は花を供えられて埋葬されていた

      ↓

「      の献花」

死者を悼み、死後の世界を想像することができた

   ↓

現代人と変わらない精神構造



石器 ルバロア技法=石核から剥片をシステマティックに作り出す技法



   ムステェリアン文化





コラム 旧人と新人の関係は?

2005 スペイン サファイラ洞窟

28000~24000年前のネアンデルタール人の石器や火の跡が発見



ブルガリア パチオキロ洞窟 43000年前のオーリネシアン文化をもつ新人の遺跡の発見 ↓

約4万年まえからネアンデルタール人とクロマニオン人が共存していた



ミトコンドリアDNA解析からはネアンデルタール人とクロマニオン人は混血していない

↓しかし

1999と2003ポルトガルとルーマニアで発見された人骨化石



旧人と新人の双方の特徴を備えていた=混血の可能性



ネアンデルタール人の消滅についての仮説

・クロマニオン人がネアンデルタール人を滅ぼした

お互い奪い合うものがない時代に絶滅させるほど激しく争う必要性はない

・クロマニオン人とネアンデルタール人の混血が進んでクロマニオン人に吸収された

ミトコンドリアDNAの結果と違う

・約4万~3万年前のギュンツ亜間氷期にクロマニオン人は新しい文化や技術、社会集団を作ったが、ネアンデルタール人は環境に適応できなかった



3つめの説が有力

↓しかし

旧人と新人の双方の特徴を備えた人骨化石

東アジアの人骨の特徴・石器の変化



2つめの説も否定できない



b東アジアの旧人

1978 陝西省(せんせいしょう)大茘(ターリー)人



北京原人の特徴を残しながら、小型の剥片石器を持っている



1954 山西省襄汾県丁村(ていそん)10歳ぐらいの子供の歯の化石を発見=丁村人



シャベル状の歯=モンゴロイドの特徴をもった旧人

       魚や貝などを食べていた

1958 広東省獅子岩遺跡から頭部の人骨化石が発見され、馬壩(マパ)人と命名



朝鮮半島

1977 平壌市力浦地区大峴洞の洞窟 力浦人

原人に近い旧人

1972・73 平安南道徳川群勝利山遺跡の洞窟

     下層から徳川人→旧人

     上層から勝利山人→初期の新人



東アジアでは原人の子孫はいつまで生存していたのか、旧人は新たにアフリカからやって来たのか、やって来たとすると、モンゴロイドの特徴であるショベル状の歯など、原人と同じ特徴を持つのはなぜかなど、不明な点が数多くあり、旧人アフリカ単一起源説ではまだ解明されていない謎が多く残されている





6,新人

a新人の出現

現生人類=ホモ・サピエンス→新人(新人類)

約20万~15万年前に出現



新人出現仮説

1,(     )説 ユーラシア大陸に広がった原人が、お互いに交流しながら、旧人、新人へと進化した

2,アフリカ単一起源説 アフリカで生まれた新人が全世界に広まった。→旧人は絶滅



1987 レベッカ・チャン ミトコンドリア遺伝子に注目



ミトコンドリア遺伝子情報は母親からだけ受け継ぎ、女方の祖先だけをたどることができる ↓結果

「       ・イブ」 世界中に住む現生人類の祖先は、約20万年前にアフリカで生きていた一人の女性に行き着く



2003 エチオピア 東京大学とアメリカの研究グループ 



16万年前の新人の頭骨を発見 ホモ・サピエンス・イダルトゥ(長老という意味)



現在はアフリカ単一起源説が有利

多地域進化説

<肯定>

 旧大陸の各地では人骨化石からも石器などの遺物からも旧人と新人の連続性が認められる。シャベル状の歯など

アフリカから新人が訪れたとする証拠が見あたらない

<否定>

そもそも形質の連続が果たして正しいものなのかという疑問

各地域でそれぞれ進化していたとすると、別々の地域で、それぞれが新人へと進化するいうことは考えにくい

遺伝子学者から、アフリカ単一起源説の根拠である遺伝子情報解析へ、十分な反論や対論が出されていない

アフリカ単一起源説

<肯定>

現在発見されている最も古い新人の人骨化石が、アフリカから出土している

ヨーロッパと西アジアでは、旧人と新人の間に連続性が見られない



ネアンデルタール人とクロマニオン人は共存していた時期があり、短期間で旧人から新人へと変化することは不可能

ミトコンドリア遺伝子情報の解析の結果

<否定>

単一起源説では東アジア・東南アジアの状況が説明できない

ヨーロッパでも人骨化石の形質、文化ともに旧人から新人へとの連続性がある

アフリカで見つかっている人骨化石が本当に最古の新人であるかどうか、まだ確定していない

遺伝子情報解析の方法や資料操作の問題



b精神の進化と文化のビッグバン

新人→画期的な思考力と技術を持つ

 南アフリカ・ブロンボス洞窟 約75000年前の幾何学模様が線刻されたオーカー(土片)が発見された。 ↓

    (   思考)が芽生えている



人類は言葉によってものに名前をつけ思考を進める



   抽象的思考にも名前がある

社会が複雑化し、抽象的な思考が必要となっている



穴の開いた小さな貝殻=ネックレス オーカーと一緒に出土



     世界最古の装飾品=おしゃれの始まり

おしゃれとは自分一人で楽しむものではなく、誰かに見てもらうことを意識したものです。そこには同じ意識、同じ価値観を持った、つまり、「同じ文化」をもった人々に対して、お互いが認識できるメッセージが発信されている



約4万~3万年前 ヨーロッパを中心として 絵画・彫刻・音楽など芸術が花開く



想像力・精神世界・世界観のあらわれ→創作活動へとむかう社会的要因



      「文化の     」



彫刻 ドイツ ホーレ・フェルス洞窟から出土 

33000~30000万年前のマンモスの牙製水鳥・ウマのような動物の頭・ライオンの頭をしたヒト



壁画 3万年前 1994年、フランス南部のショーヴェ洞窟で3万年前のサイ・ウマ・マンモス・クマ・ライオン・トナカイなど13種の動物が描かれたものを発見

楽器 ドイツ南部のゲイベンクロースタール洞窟から37000年前の象牙製フルート



c新人の「出アフリカ」

アフリカ単一起源説ではアフリカから新人が旅立つ



アフリカ以外で発見されたもっとも古い新人

イスラエルのスフール洞窟やカフゼー洞窟で発見された10万年前の人骨化石10万年前の

↓ しかし

ネアンデルタール人も発見され、さらにネアンデルタール人の石器文化であるムスティエ文化の石器が新人の人骨化石に伴っているといわれ、解決しなければならない問題もある



7万年前頃 (     )へひろがりはじめる

4万年前以前 クロマニオン人がヨーロッパへ進出=ネアンデルタール人と共存



東南アジアには、ヒマラヤ山脈の南やインドを回って、スンダランドに到達



       「   ルート」

4万年前 海を越えてサフールランド(オーストラリア・ニュージーランド)へ

4万~3万年前、スンダランドに住んでいた初期アジア人の一部



     東アジアへと進出し、一部、沖縄の港川人や縄文人になる



ヒマラヤ山脈の北側→中央アジア・シベリア

         ↓

       「   ルート」

シベリア南部のウンチ・カン洞穴→旧人のルヴァロア技法の石器が多数発見

ウズベキスタン共和国テシク・タシュ洞穴→ネアンデルタール人の人骨化石が発見



        旧人が進出していた



石器製作址のカラ・ボム遺跡では、ルヴァロア技法から新人がもちいた石刃技法へスムーズに移行していた。さらに縦長の石刃をつくり出す、後期旧石器文化へ連続的に移行



      文化が旧人から新人へと連続している



ヒマラヤ山脈の北側では、先に進出したネアンデルタール人と、後で進出したと考えられる新人の文化がつながっている →アフリカ単一起源説では説明がつかない



dマンモス・ハンター

北回りルート→さらに東に進む→シベリアへ

23000年前 マリタ遺跡 8~10軒の住居が発見→マンモス・ハンター

モンゴロイドの特徴を持つ歯



約21000年前 マンモスや大型獣を倒す道具の考案

(   )

棒の尖端につけた溝に、細石器と呼ばれる1~3センチほどの小さな石の刃を、いくつも埋め込んで作った槍による狩猟が始まる。この槍で動物を刺さすと、石器が体内に残って、傷口が閉じず、動物は出血多量で死亡

シベリアのココレヴォⅠ遺跡では、野牛の肩甲骨に細石器が刺さった状態で出土



南シベリアから東シベリアまで利用された



ヴュルム氷河期の終わりごろ

マンモス・ハンターの子孫は、大型獣を追って、北極圏へとすすむ



15000~12000年前頃には、ベーリング海を渡って(    )大陸へ進出

約2万年前 北部中国へ



 朝鮮半島       サハリン

↓ 湧別技法(細石器の製作技術)

      (  )へ






























Ⅱ 先土器時代

1,日本の人骨化石

新人→各地に広がり独自に発展



日本の歴史を考える場合、日本の状況に即した時間の物差し(編年)を使う

縄文時代以前=先土器時代・・・世界的な編年のほぼ(旧石器時代)に相当



コラム

三時代区分法

デンマークの博物館員トムセン・・・利器の素材で時代をあらわす

石器時代  

(     ) 三時代区分法

鉄器時代  



石器時代   旧石器時代 石を打ち欠いただけ                 ・・・打製石器

新石器時代 石を磨く

              ・・・(    )



東アジアでは一部を磨いた石器(      )が旧石器時代からも出土

  ↓

    ヨーロッパ・西アジアの状況と違う



日本では 先土器時代・・旧石器時代 

縄文時代・・・新石器時代

弥生時代・・・鉄器時代

新石器時代は世界的に農耕文化だが日本では狩猟採集文化

中国から青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたので、青銅器時代は日本にはない



a日本で最も古い人骨化石

日本=酸性土壌→有機物が残りにくい=骨が残りにくい



いくつかの発見例がある



もっとも古い人骨化石



約32000年前 山下洞穴人

1968 沖縄県那覇市山下町第一洞穴で発見された6~7歳の子供の大腿骨と脛骨

脛骨には、ハリス線と呼ばれる、一時的な成長阻害のためにできる横線が見られる



b(港川人) 約18000年前

1967 沖縄県具志頭村港川の石灰岩採石場で発見

1970数体の人骨化石が追加→少なくとも5体分ある



身長150~155㎝

彫りが深い

頬骨が張る

丈夫な顎

足腰が強靱



狩猟のため野山を駆け回る

脛骨にハリス線



ジャワ島ワジャク人 中国南部柳江人に似ている



スンダランド・東アジアからきた?



彫りの深い顔立ち、歯が鉗子状にかみ合うなど、縄文人とほぼ同じ特徴



縄文人の祖先?



c本州から出土した人骨化石

18000年前 (   )

1960~62 静岡県浜北市根堅(ねがた)の石灰石採石場で発見

人骨化石は上下2層で発見

上層=若い女性は縄文人に類似しており、約1万4千年前

下層=脛骨は縄文人とは似ておらず、約1万8千年前



日本で発見された人骨化石→すべて新人 原人や旧人は発見されていない



コラム

明石原人の今

明石原人=日本の人骨化石研究のはじまり

1931直良信夫 兵庫県明石市西八木海岸の断崖沿いで、氷河期の地層が崩れ落ちた堆積物の中から、腰の骨(寬骨)を発見



東京帝国大学の松村瞭に送付し、松村は石膏型を作成



1945 東京大空襲で消失

        ↓

1948 松村の後を継いだ長谷部言人・・・石膏型からジャワ原人・北京原人と同じ進化の段階の人類とみなし、明石原人と名付けて発表



1982 東京大学の遠藤萬里・国立科学博物館の馬場悠男が、明石原人は完新世から現代までのいずれかの時代の日本人寛骨とした



1985 国立歴史民族博物館の春成秀爾

西八木海岸で発掘調査



5~6万年前の層から 人工的に加工された木片を発見→人骨は発見できなかった



明石原人がいた(層位からみて実際には原人ではなく旧人)ということを100パーセント否定できない状況



明石原人は、いまだに謎を含んだ人骨化石 





3,先土器時代の発見

a岩宿以前

明治時代

来日した英国人医師のN.G.マンロー→日本の先土器時代(旧石器時代)に最初に注目

日本各地からゾウ・鹿・野牛などの動物化石が発見されている



更新世には大陸と陸続き・・・原人が動物と同様、陸づたいに日本に渡来した可能性を指摘



大正時代

京都帝国大学の喜田貞吉(1871 - 1939)・浜田耕作(1881 - 1938)の大阪府国府遺跡の調査など・・・先土器時代の存在を明確にできなかった



昭和 戦前

1927 直良信夫 明石の西八木海岸で石器を拾い、先土器時代(旧石器時代)に人類が存在した証として、1931明石原人を拾った年に発表



皇国史観を正当な歴史観とし、神代史に触れる研究がはばかられた時代

日本の考古学会は、先土器時代の研究の扉を閉ざしていた



b岩宿遺跡の発見

行商をしながら考古学を勉強していた、(    )が先土器時代の口火を切る

1946 群馬県笠懸町岩宿の切り通しの、関東ローム層の中から細石器を発見

1949 同じ切り通しから石槍先を発見



明治大学学生の芹沢長介を介して助教授杉原荘介と会い、9月に現地で試し堀の調査

関東ローム層→更新世の時期の活発な火山活動によってできた灰層で、人類は住んでいないと考えられていた



A~C地点の3カ所を調査 A地点の上の層と下の層で違う様相の石器を発見

上層 ナイフ形石器 石槍(      )

     岩宿Ⅱ文化

下層 ナイフ形石器 石斧

岩宿Ⅰ文化



C地点 ローム層の上から縄文土器を発見・・・石器が縄文時代より古いことを証明



杉原・芹沢・・・石器の特徴の違いから、敲打器文化、石刃文化、尖頭器文化、細石器文化という先土器時代の変遷を考察



大筋で変わっていない



4,石器の特徴と編年

a関東ローム層はなぜできた

相沢の発見以前

火山灰が降下した堆積物だけからできていると考えられ、人間が住めるはずがないと思われていた

現在

降下した火山灰の堆積物だけではなく、火山灰の二次堆積物や、中国などから偏西風によって、また、川岸から風によって運ばれた砂塵などによってできた



関東ローム層は大きく(     層)・武蔵野ローム層・下末吉ローム層・多摩ローム層の4つに分けられ、現在、遺物が発見されているのは一番上の層の立川ローム層で、後期旧石器時代の石器群



bAT火山灰層

25000年前 鹿児島 姶良カルデラが噴火→東北地方北部や朝鮮半島まで降った火山灰

=AT火山灰



          各地方で対比できる

    お互いを対比できる層を「  」と呼び、AT火山灰層はその代表



AT火山灰層より下の層

鏃などの狩猟具とされている台形石器と、石器の一部を磨いている局部磨製石器が伴い、北海道から九州まで類似する石器を持つ文化が広がっており、地域差がない

日本の先土器時代では磨製石器が発見されており、磨製石器の出現が、世界でも古い地域である



c二つの文化圏

AT火山灰が降下する前後・・・石器に刃をつける石刃技法が発達



AT火山灰層より上の層

石器の製作技法や組み合わせに地域差

東日本・・・(      )

西日本・・・国府型ナイフ ・・・瀬戸内技法

        ↓

    大きく2つの文化に分かれる



ナイフ形石器の消滅→細石器

楔形細石核から細石刃を作り出した東日本と、野岳・休場型細石核から作り出した西日本とに文化が分かれている





5,社会の復元

1968戸沢充則が埼玉県砂川遺跡の調査で、石器が作られる過程を考察するための画期的な研究



遺跡で発見された石の破片を、パズルのように接合し、元の石に復元する



石器が原石からどのようにして作られたか、その製作技法を明らかにすることに成功した



砂川遺跡では、

原石から石器を作る途中まで復元できた接合資料

石器製作の途中から石器を作り終わるまで復元できた接合資料



どこか他の場所で原石を途中まで割って砂川遺跡に持ち込み、石器を作り終えた石と、砂川遺跡で原石から途中まで割って、他の場所へ持ち出した石がある。



人々が砂川遺跡に定住しているのではなく、次々に生活の場所を変えながら移動していった様子がわかった。



このような生活の形態を、(  )と呼ぶ。





bブロック・ユニットと人の行動

遺跡の中で、石器が集中して発見される部分をブロック



ブロックが、空白部分を中心としてドーナツ状に並ぶ=環状ブロック群



1990安蒜雅雄→先土器時代の個人の行動・家族・社会集団を考察

規模がもっとも小さい石器の集中をスポット=個人の石器製作行動の跡

スポットがいくつか集まったものをブロック=家族

ブロックのいくつかのまとまりをユニット=家族の集合体(小集団)

ユニットがいくつかまとまって形成された遺跡を小集団群



先土器時代は、家族の集合体がいくつか集まって行動していた



1987栗島義明

ブロック間やユニット間で石器の接合ができる場合がある→石器の交換・譲渡



石器・情報・物・ヒトの交換に、婚姻に伴う贈答など、均衡的互酬性の原理が働いている



c黒曜石の調達方法

黒曜石→石器の材料

蛍光X線分析で成分を調査し、原産地を特定することが可能



信州、箱根、神津島の原産地と、関東地方の消費地を結びつける



信州や神津島で取られた石材を関東の人々がどのようにして手に入れたのか?

直接関東の人々が取りに行った

  贈与交換によって手に入れた



どちらともいえない



d移動生活と疑問点

旧石器時代の人々は定住しているわけではなく、移動しながら生活をしていた

疑問点

1,季節によってベースキャンプと一時的なキャンプとの往復を行なうだけだったのか、次々と生活の場を移動して行くのか?

2,どれほどの範囲を移動するのか?

3,石器を作りながら移動するのか、一カ所で多量に作っておいて必要な量だけもって移動するのか?

4,黒曜石など、遠くの石材をどのようにして手に入れるのか?



6,環境の復元と人々の生活

a気温と植生

先土器時代→地質年代 更新世 氷河期

平均温度 現在より7~8度低い



現在の北海道北部からサハリンのような環境



宮城県仙台市富沢遺跡24000~20000年前の自然の森が低湿地に埋もれて残っていた。

いっしょにナイフ形石器も数点発見



森はトウヒ属が4割、残りはカラマツ属とモミ属で、大部分が針葉樹





b野尻湖立が鼻遺跡と生息動物

野尻湖立が鼻遺跡48000~33000年前の遺跡 中期旧石器時代

(      )、オオツノシカ、ヒグマ、野ウサギ、ウシ科、ヤマドリなど1万4千点以上の動物化石が発見

石器や骨器などの人工物も発見→典型的なものではない

発見された動物化石の91.9パーセントがナウマンゾウの骨なので、ナウマンゾウの解体作業を行なった場所ではないかと推測



中期旧石器時代の遺跡は岩手県宮守村金取遺跡以外ない→一見して石器とわかる定型的なものがない → 中期旧石器時代については今後の検討が必要



静岡県三島市初音ヶ原遺跡 27000前の大規模集落と落とし穴群



落とし穴に大型獣を追い込み、足を取られたところを仕留めた



7,ねつ造問題と最古の遺跡

aねつ造はなぜ起きたの?

 岩宿遺跡での発見以来、先土器時代の遺跡が数多く調査されました。しかし、すべては後期旧石器時代に属する遺跡で、前期・中期旧にさかのぼる明確な遺跡は発見されませんでした。大陸では前期旧石器時代の北京原人や藍田原人などが発見されており、そのころ、陸続きだった日本にも、人類が訪れた痕跡があってもおかしくないと考えられていました。

 1980年、仙台市教育委員会が調査した山田上ノ台遺跡において、日本で初めて前・中期旧石器時代の報告がなされました。翌年、座散乱木遺跡で、4万数千年前の石器が、2000年には宮城県築館町上高森遺跡で、60万年前を超える古い石器が発見され、東アジアの中で最も古い段階の人類の痕跡の発見といわれました。しかし、これらの発見は、ねつ造だったのです。発見にはすべて藤森新一が関与し、「神の手」として一躍有名となっていました。2000年、毎日新聞の記者によって、彼が遺跡内に石器を埋めているところのが撮影され、ねつ造が発覚したのです。翌年、日本考古学協会は、彼がかかわった発掘調査はすべて学術的意味を持たないという結論を出しました。このように大きな問題になってしまった原因は、発掘調査で出土したものを考古学者が無批判に信用してしまったことにあります。また、日本最古の遺物の発見という胸をときめかす言葉に、誰しもが踊らされてしまったからです。



b結局、最古の遺跡はどれ?

現在、35000年前より古い、前期・中期旧石器時代に確実にさかのぼる遺跡は、発見されていない

最も古くなる可能性のある遺跡



岩手県宮守村金取遺跡 中期旧石器時代にあたる8万年前と推定される石器が出土





8,細石器文化

a細石器文化二つの道

先土器時代の終わり→大きく二つの細石器文化が日本に到来

一つはシベリアや東北アジアからもたらされた、湧別技法によって作られた細石器を伴う文化=主に北海道から東北日本、アラスカにも分布

   荒屋型彫器と呼ばれる石器が伴う

   湧別技法とは、舟形や楔形の石核を縦割りして、細石器を作り出す技法

一つは、中部・関東から九州にかけて分布する、矢出川技法によって作られた細石器をもつ文化

矢出川技法は、円錐状の石核を打ち欠くことによって、細石器を作り出す技法



約2万年前 湧別技法を伴う文化が到来

約18000~15000年前 西日本に細石器文化が到来



湧別技法を持つ細石器文化は津軽海峡を境にして大型の槍先や磨製石斧などを持つ、本州の神子柴文化と分かれていた。→交渉を持つようになる。





9,先土器時代のおわり

a土器のはじまり



約20000~13000前 晩氷期に急激な気候変動



温暖化と急激な寒冷化を何度も繰り返した

狩猟により有効な細石器や、大型の石槍先・局部磨製石斧などが発明



これらの石器を用いる人びとの間で土器を使用する人びとが現れた







Ⅲ 縄文時代


1,縄文時代の始まり

a気候変動と生活の変化

更新世の氷河期が終わる→約(  )年前 地層年代では完新世

地球は本格的に温暖化

海面は上昇=日本は大陸から切り離されて日本列島となる。

寒冷地に住む(      )・オオツノシカなど、大型獣は絶滅

かわって中・小型の動物が生息



狩猟対象をイノシシ・鹿などに変更

槍から(  )へ=縄文時代のメルクマールのひとつ



中小動物だけでは不足



身近に迫ってきた海に住む魚介類を、土器で煮炊きして食べた

貝殻や廃棄物を一定の場所に捨て、貝塚を形成



植生も変化し、針葉樹林にかわって落葉広葉樹林や照葉樹林が進出=森にはクリ・クルミ・ドングリ・トチなど、秋にたくさんの実をつける堅果類が多く含まれる



磨り石や石皿で磨りつぶし(  )で煮込んで調理 食料の安定確保

貯蔵穴に長期貯蔵                 



土器で加熱処理→多くの可食食料を増やした



定期的、安定的に収穫でき、保存できる植物食料への依存度を高めた



食料の確保に季節的サイクルを形成(春は木の芽、秋は堅果類、その他に狩猟や漁労)



定住



b「縄文土器」の由来



1877年(明治10年)、東京大学で生物学を教授していたエドワード・S・モース(1838 - 1925)



横浜から東京へ向かう汽車の窓から、大森付近の貝層に気づき、調査を行なった



(    )の発掘=日本の近代考古学の始まり

出土した縄目が付いた土器=“cord marked pottery”



1886年 白井光太郎が「縄紋土器」と翻訳



c「最古の土器発見」の歴史



1950 神奈川県夏島貝塚出土した、土器に紙縒(こより)状の紐を転がした、撚糸文土器が、放射性炭素年代測定法(C14年代測定法)で、約9000年前頃を示す→当時、土器としては世界で最も古い数値



1957年 新潟県本ノ木遺跡で、神子柴文化の石槍先とともに、縄目の圧痕を施した土器が出土

この石槍先を、先土器時代のものと考えた芹沢長介に対して、山内清男は縄文時代のものと判断し、放射性炭素年代測定法に誤りがあるとして、「本ノ木論争」を起こした



1960年 九州の長崎県福井洞穴で、約1万2千年前の細石刃とともに、土器に粘土の紐を貼り付けたり、ヘラを押し当てて隆起させた文様をもつ隆線文土器が発見



1973年 長崎県泉福寺洞穴で、隆線文土器の地層より下位の層から、豆粒のような貼り付けがある、豆粒文土器が出土



本州や四国では長野県柳又遺跡や愛媛県上黒岩遺跡で、神子柴文化に伴って土器が出土

神奈川県上野遺跡では、豆粒文土器より古い、無文土器が発見





d最古の縄文集落と文化の東進

隆線文土器を使う人々は本州から九州まで広がっている

この頃の集団は小規模で、先土器時代のように、数家族が身を寄せ合って暮らしていたと考えられていた

↓ところが

鹿児島県栫(かこい)の原遺跡 九州

宮崎県掃除山遺跡



隆線文土器を使っていた時代の集落遺跡が調査

・竪穴住居址や炉穴などの恒久的な構築物

・大量の土器が出土

・磨り石・石皿・くぼみ石など植物性食料を処理するための遺物

・土掘り具の打製石斧

・石鏃=石槍にかわって、弓矢が普及



彼らはすでに、食料獲得に季節的サイクルをもち、大規模な集団で定住型の(  )を営む、縄文的な生活様式を実現していた。



本州

隆線文土器を使う人々の集団は小規模 先土器時代的な特徴から脱却していない

石槍を使用



日本で一番早く温暖化した南九州で、縄文文化の基本的な生活様式が成立した

その後

9千年前頃 南関東 撚糸文土器を使用する人々→竪穴住居に住み、土器を大量に使用

8千年前頃 函館市中野B遺跡など北海道にも大型の集落が形成



縄文文化の生活様式は、温暖化とともに東進して、日本全国へ受け入れられていった



2,時期区分と変遷

a時期区分と範囲

縄文時代は1万年以上も続いた



人々の文化や生活様式も変化

土器の形や模様の違いは、文化の地域的な違いや、時期的は変化をあらわしている



地域ごとの編年を作成するための重要な要素



b時期区分と暦年代

縄文時代は

土器編年から、(  )期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる

地域的には、北海道から沖縄までが縄文文化の影響を受けた



それぞれの地域の土器に、地域差や時期による変化が見られ、一様ではない





縄文時代の暦年代、

未補正の放射性炭素年代測定法で測定した年代

草創期が1万3千~1万年前、

早期が1万~6千年前、

前期が6千~5千年前、

中期が5千~4千年前、

後期が4千~3千年前、

晩期が3千~2千3百年前



 加速器質量分析(AMS)法で測定して補正した暦年代

草創期が1万5千~1万2千年前、

早期が1万2千~7千年前、

前期が7千年~5千5百年前、

中期が5千5百~4千5百年前、

後期が4千5百~3千3百年前、

晩期が3千3百~2千8百年前



コラム 考古学で使われる科学的な年代測定法

 放射性炭素年代測定法

 植物は光合成を行ない、体内に炭素14を取り込んでいます。取り込まれた炭素14は放射壊変して窒素14へと変化します。植物が生きて光合成をしている間は、体内での炭素14の濃度(炭素13や炭素12に対する炭素14の存在比)は一定に保たれています。また、その植物を食べた動物の炭素14も一定に保たれているのです。ところが動植物が死んでしまうと、新たな供給がないために、炭素14は時間とともに窒素14へと変化ししだいに減少していき、その半減期は5730年です。よって、炭素14の減少量を測定すれば、試料が遺体となった年代を推定することができるのです。この方法を放射性炭素年代測定法といいます。

この方法は、大気中の炭素14の含有率が常に一定ならば、未補正のままの年代を使うことができますが、含有率は年代によって変動しており、測定された年代は、本当の年代より新しい数値が出てしまうことがわかってきました。そこで、つぎに説明する年輪年代測定法と比較して、炭素14の年代の誤差を修正したものを較正といっています。

 また、加速器を使うことによって微量の試料で年代が測定できるようになりました。この方法を加速器質量分析(AMS)法と呼んでいます。



年輪年代測定法

 木の年輪は一年に1つできます。また、その年の気候によってでき方が変わり、気候変動によって成長のパターンが決まっています。調べたい木材の年輪の数を数え、成長のパターンを、既知の資料から作られたパターンと比較することによって、その木がいつ頃伐採されたかを知ることができます。この方法を年輪年代測定法といいます。



磁気年代測定法

 地球の地磁気は年代によって変化しています。炉や窯址など、焼けた土は過去の地磁気の方向を記録していますから、その方向を調べ、地磁気の永年変化図と比較することで年代を知ることができます。



c草創期

・草創期の土器

日本で最古の土器群

砲弾状や丸底、平底の深鉢

草創期のはじめは1万3千年から1万4千年前の無文土器

 神奈川県上野遺跡・青森県大平山元Ⅰ遺跡などで発見

大型の石槍先や局部磨製石斧など神子柴系石器群を伴う



豆粒文土器や隆線文土器

細石刃や、有舌尖頭器と呼ばれる、根本に柄をつけるための突起を持った槍先ともなう

隆線文土器は青森県から種子島まで出土



爪形文土器(爪や竹管で三日月状の模様をつけた)

有舌尖頭器や石鏃などが伴なう



多縄文土器

押圧文・回転縄文、絡条体圧痕文を施した土器

縄文を本格的に文様として使い始めた

器面の多くを縄文で飾ることから多縄文という

・草創期の生活

石槍や細石刃から、弓矢へと変化

落とし穴 自分たちで動物を追い込んで落とす、先土器時代的なものから、水辺付近に作って、動物が落ちるのを待つ、縄文的な落とし穴へと変化



住居は2~3軒程度の集団を形成し、平地や岩陰に住んで、炉穴や集石炉(         )で調理=先土器時代的な生活の形態をとどめていた



*南九州では隆線文土器を使い始める頃から、縄文的な生活様式を実現



d早期

・早期の土器

底部を尖らせた尖底の深鉢が中心=立てて置くことができない→( )を掘って底部をさして安定

東日本では、撚糸文土器のあと、沈線文土器・無文土器・押型文土器が繁行し、最後に隆帯文土器が出現するという変遷

沈線文土器の新しい段階から、土器の粘土に植物の繊維を混ぜ込む

・早期の生活

早期でも、ほとんどの地域では、2~3軒程度の小さな集団で、平地や岩陰に住む



 愛媛県上黒岩岩陰遺跡 イヌが埋葬さた状態で出土→イヌの飼育が始まっていた

イヌは、番犬や狩猟のパートナーとしてだけではなく人間と深い友情で結ばれていた



埋葬されるのは人間とイヌだけ

千葉県高根木戸遺跡(縄文時代中期の例)からは、尺骨などを骨折した後に、足を引きずりながらも12歳まで生存したイヌが、埋葬された状態で出土

狩猟で怪我をおった後も飼い主が大切に養っていた



 水辺や海浜の地域→魚や貝の捕獲



          貝塚が形成

神奈川県夏島貝塚 釣り針や銛

横須賀市平坂遺跡 網の錘



北海道垣ノ島B遺跡 櫛や腕輪などの漆製品が出土



南九州では、地域性の強い土器文化が発達

鹿児島県上野原遺跡の調査では竪穴住居址が52軒、集石遺構39基、燻製料理施設19基が発見され、建て替えの住居址がある

同じ場所に定住し続けていた

石皿・磨り石など、植物食の調理用具

祭祀のための土偶・異形石器  高度な精神文化を持った縄文的な社会

装飾品として使われた土製耳飾り



e前期

・前期の土器

深鉢は安定した平底になって直立

浅鉢や皿などの土器の種類の増加



土器の表面には、組紐を回転させて押捺した縄文や、竹を半裁した道具による押引文や平行線文などが施される



・前期の環境と生活

もっとも温暖化した時期=気温は現在より2から3度高い



針葉樹林帯は後退し、照葉樹林が大阪湾岸まで拡大

針葉樹林と照葉樹林の間にクリ・ドングリなど落葉広葉樹林が広がる→採集活動への依存度が高かった人々の生活を支えた



 海面→現在より5~6メートル高い=「    」

海没した低地は、浅い砂浜となり、そこに貝類が繁殖



前期の末から中期には、大量の貝類を採り、大規模な貝塚が形成



採られた貝の量は膨大=一村落で消費できない

 保存食

 石器の材料など必要なものを調達するための(   )



干し貝を利用



・前期の集落

不整形や隅円形の竪穴式住居に住み、内部に炉を作る

東北地方や北陸地方の深雪地帯では、共同作業場と考えられる、長さ15~40メートルもある、長方形大型住居も出現



 集落は円形や馬蹄形に作られる

長野県阿久遺跡=祭祀遺構・土壙墓・方形の柱列を中心に、それらを取り囲むように住居址が配置



大規模で安定した定住生活=沿岸部は海産資源を、山間部は植物資源を活用したおかげ

東北地方でも青森県三内丸山遺跡のような大規模な集落が形成



f中期

・中期の土器

把手状の装飾や、人面・動物文などを施した、装飾性豊かな土器が作られた

北陸地方を中心に広まった火焔土器は、把手状装飾の頂点

(華美とも思える装飾は、深鉢本来の機能である煮炊きのためには邪魔で不便)



機能を超えた精神的要素が加味

蛇や動物、人の顔などの力強い造形→自然に対する豊かな感性の表現



・中期の生活

前期に引き続き、落葉広葉樹林は人々の生活を支えた



前期の生活様式や精神文化は中期に大きく花咲く



集落は、中心部には祭祀遺構や墓穴が作られ、その周りに掘立柱の住居群、さらにその外側には円形の竪穴式住居群や貯蔵穴群が取り巻く



前期後半から続く形態を拡大し、大規模な環状集落が形成



・中期の食べ物

 クリやドングリなど、秋に多くの木の実をつける木々→管理

 エゴマ・ヒョウタンなど一部の植物→栽培

 植物→石皿・磨り石で粉砕→縄文クッキーやパン



長野県伴野原遺跡 石囲炉の中からパンが出土



 打製石斧は石斧と考えられてた→現在はその形状や民族例から、地下茎や球根類を掘り出す「土掘り具」と考えられる



中期には大量に出土=地下茎や球根類の採集だけではなく、土木工事の道具としても使用



狩猟も行なっている

イノシシの生息していない八丈島湯浜遺跡からは幼獣骨

北海道千歳空港遺跡からは多数のイノシシの牙が発見

北海道渡嶋日ノ浜貝塚では幼獣の土偶も出土



本土から幼獣を運び込み、イノシシの飼育



植物の管理や栽培、食用動物の飼育



前期後半にさかのぼる



g後期

・後期の土器

華美な装飾→衰退

模様によって区画した部分の縄文を磨り消す=(  )縄文



・黒い色調の土器が多いことが特徴

・深鉢は精製品と粗製品の区別

・浅鉢、皿、壺などの器種が豊富

・急須に似た注口土器が出現



・後期の環境と生活

後期には気候が冷涼化→植生も変化=落葉広葉樹林は後退



・集落の縮小

・中部高地や関東地方の大規模集落は急激に衰退

・入り口部分が延び、床面に石を敷いた柄鏡形敷石住居など、用途不明の住居址も出現



関東では後期末には、大きな集落は消滅



h晩期

・晩期の土器と亀ヶ岡文化

晩期には磨消縄文を基調とした土器が最盛期



東北地方を中心に亀ヶ岡式土器文化の影響が広がる→影響は九州にも見られる



亀ヶ岡式土器=縄文文化における造形美の一つの頂点



晩期 温度がさらに低下=現在とほとんどかわらない気候



変化した気候の中で縄文文化を維持しようとして、最先端だった亀ヶ岡文化を取り入れようとした



 その後、人々は大陸から九州に渡来した農耕文化を受け入れる



縄文文化は北海道の続縄文文化・沖縄の文化の中に色濃く残る





3,生活の様子

縄文時代=新石器時代=世界的には小麦などを栽培する農耕文化の時代

中国では農耕が始まり、金属器が出現→初期国家が形成



縄文文化と中国・朝鮮半島の文化は全く交流がなかったか?



 九州では朝鮮半島と同じ結合形の釣り針が出土=お互いが交流

 玦状耳飾りの起源は大陸に求められる

 東北地方では青竜刀形石器や青森県今津遺跡では 鬲に似た三足土器が出土

 山形県三崎山遺跡では青銅の刀子が出土



縄文の人々は大陸で自分たちと違う社会を形成し、違う生活を送る人々がいることを知っていた

↓しかし

大陸の人々とは違う文化や社会を形成



かれらの生活や社会はどのようなものだったか?

生活の基盤はなんだったか?



a食料

 生活の基盤=食料の入手

縄文文化を支えた食料入手方法は狩猟採集→植物食に大きく依存

縄文時代の早い段階からいろいろな形で食料を栽培や管理

・植物

 植物食=縄文の人々の主食

日本列島は植物資源に恵まれていた



特定の場所で、毎年、決まった収穫量が望める

比較的保存もしやすい



植物食が主食となった

堅果類、蔬菜(そさい)類、地下茎、球根類、雑穀類などあらゆるものを食べた

遺物として主に出土しているのは堅果類(トチやドングリなど)



堅果類の一部は、(    )作業が必要

気候が冷涼化してくる後期→あく抜きが必要なものも積極的に食べる

栃木県寺野東遺跡では、大がかりなあく抜き施設と、多くの貯蔵穴が発見

深鉢→煮炊きだけではなく、あく抜きにも用いられていた

・植物の栽培や管理

・福井県鳥浜貝塚→前期にリョクトウ・エゴマ・ヒョウタンなどの植物栽培が行われていた

・青森県の三内丸山遺跡 花粉分析から、前期に人が居住し始めると、周辺がブナの林からクリの林へとかわり、中期末に人々がいなくなると、またブナの林に戻っている→三内丸山の人々はクリの木を植林して増やし育成していた



地域や気候に合った植物の(  )や管理を行なうことによって生活していた



・狩猟と飼育

狩猟=イノシシやシカが重要な対象動物

そのほかにも様々な動物が対象



 (  )の使用

 仲間や(  )と一緒に集団による狩り

 水辺に落とし穴

 ワナによる狩猟



お互い補完しあい、狩猟システムとして機能



イノシシの飼育も行われた



 狩猟や飼育で得た肉は食料とし、毛皮は衣服やテント・敷物・袋となり、骨は、釣り針や銛などの骨角器、櫛やペンダント、腰飾りなどの装身具とした



・漁労

 漁労=前期までには確立

釣り針・銛・ヤス・網・梁などが出土

各地から丸木舟も出土



舟は漁労の道具としてだけでなく、海上交通の手段としても利用



・サケ・マス論

 サケ・マス=定期的に遡上→人々の生活には欠かせない食料源

「サケ・マス論」

1969年、山内清男は、カリフォルニア・インディアンの例から、



日本でも

東北半はサケと木の実

南部では木の実を主食とした  と推測



東北日本と西南日本の縄文文化の相違を環境から明らかにしようとした

縄文人がどれくらいサケに依存していたかは意見が分かれる



サケ漁に食料の大きな比重をおいていたか不明



b縄文の宝箱

先土器時代の人々 海産物を食べた形跡がない



貝の採集 夏島貝塚などから、早期前半には行われていた



海産資源の利用=先土器時代から縄文時代への変化の中でも最も大きな変化の一つ



貝塚=(     )

不要になった石器、骨角器などの道具類・日用品から埋葬された遺体まで、ありとあらゆるものを廃棄・遺棄・埋葬



酸性土壌の日本→遺存しにくい骨類が、貝殻のアルカリ成分に守られている

考古学者にとって貝塚=人々の生活や精神文化を知るだけではなく、縄文人の骨格までも知ることができる「  」



・大規模貝塚と交換

貝塚はその規模で、3つに分ける

  住居で消費したものを捨てたポケット貝塚

  集落単位での消費で形成された小規模なもの

  集落の消費量をはるかに超えた大規模なもの



大規模な貝塚は、中期に出現し、後期に増加

円形や馬蹄形を呈す

千葉県加曽利貝塚 直径150メートル貝層の厚さ1.5メートル



東京都北区中里貝塚 中期から後期 幅約40メートル、長さ約1キロ、厚さ4メートルの大規模な貝塚



ほとんどハマグリとカキの殻だけで構成されてる

遺構は、貝を加工した窪みや、たき火の跡→住居なし



干し貝を作る加工場

特産物の干し貝を作り、他の集団と交換することによって、必要なモノを手に入れていた

このような流通システムや社会的ネットワークが、中期にはできあがっていた



大規模な貝塚 後期後半、製塩土器が出現する頃になると消滅

製塩の普及によって、干し貝はその役目を塩に譲った



・資源保護

北区中里貝塚→大きな貝だけ採集=資源を保護しつつ、貝を捕っていた

落とし穴猟 縄文時代前期を境に減少→大規模な落とし穴猟=捕れすぎて動物資源を枯渇させてしまう恐れがあった

    ↓

縄文の人々は、乱獲が自分たちの死活問題であることを知っており、自然と共存して生活していた



・縄文生活の特徴

 縄文時代の人々は地理的な特長を生かして植物の栽培や管理、動物や貝類の保護・育成しながら食料を生産

    ↓しかし

これらの生産活動は狩猟採集生活の延長線上に形成された生産活動

自然との共存の上に成立

    ↓したがって

中国や西アジアの農耕のように、自然環境を改変して耕地を作り、多量の余剰生産を生みだすことはできず、農耕文化を構築するには至らなかった





5,縄文農耕論

 縄文時代に農耕があったのではないかという議論→1920年代から行われてきた。



中期農耕論と晩期農耕論とがある



a中期農耕論

 大山柏 1927年、相模原市勝坂貝塚出土の打製石斧を土掘り具とし、これが農耕作業に使われたと主張→縄文時代中期農耕を発表



戦後、藤森栄一は八ヶ岳山麓の遺跡を考察→狩猟具の石鏃が乏しく、打製石斧が多数出土することから、原始的な焼畑農耕の可能性を指摘



その後、八ヶ岳西南麓の井戸尻遺跡群の調査によって、焼畑農耕からクリの木の保護・管理へと考えを進め、クリ帯文化論へと論を進めた



 一方、渡辺誠は、前期から中期は水さらし・あく抜き技術の発達した半栽培段階だったと主張



 現在では、福井県鳥浜貝塚や、青森県三内丸山遺跡の例から、有用な植物が栽培・保護・管理されながら食糧資源として活用されていたことが推測されている



b晩期農耕論

 賀川光夫 縄文時代晩期の土器と中国の黒陶文化の土器を対比し、九州の縄文晩期には大陸文化が直接波及し、農耕文化も渡来していたという晩期農耕論を発表



その後、後期後半から晩期初頭には雑穀栽培を主とする焼畑農耕が、晩期には稲作農耕が始まったと主張



 1978年に福岡県板付遺跡で、続いて1980年には佐賀県菜畑遺跡で水田跡が調査→板付遺跡の水田では晩期夜臼式の土器を出土し、菜畑遺跡の水田からは、それより古い、山ノ寺式の土器が伴っていた



北部九州では、晩期に水田経営が行われていたことが証明された



 晩期の稲作農耕は、しだいに生産力が高まり、弥生時代へと発展していったことがわかっている。そのため、北部九州の山ノ寺式以降を、縄文時代にするのか弥生時代にするのかで研究者の見解が分かれる。



縄文時代にも植物の栽培などが行われていたので、人々が稲作農耕を受け入れるのにさほど時間がかからなかった。

 後期の焼畑農耕については現在のところ遺構の発見がなく、今後の課題。





6,照葉樹林文化論

 中尾佐助の照葉樹林文化論→縄文時代の植生や環境、それに伴う栽培や農耕を考えるうえで大きな助けとなった



 照葉樹林=カシ・クス・シイなど常葉広葉樹林

この樹林帯に含まれる地域は、関東・中部・西南日本と、朝鮮半島から中国中南部、東南アジア北部、ヒマラヤ山麓のインドで、この地域では、アワ・ヒエなど雑穀栽培・サトイモ・ナガイモなどの根菜類栽培や焼畑耕作がおこなわれ、水さらしによるあく抜き法、茶の加工と飲用、絹と漆の製造、糀を使用した酒などが発明されるなど、照葉樹林の植生を利用する文化が生まれた



日本では縄文文化がそれに相当する



さらに農耕方式を、野生採集段階、半栽培段階、根茎作物栽培段階、雑穀栽培段階、水稲栽培段階の五段階にわけた→縄文文化の変遷の理解に貢献



 その後、縄文文化は、冬には葉が落ちる落葉広葉樹林によって育まれた文化であることがわかってきたが、環境によって縄文文化を理解しようとするきっかけとなった





7,縄文ムラの構造

 縄文時代の人々の、主な生活の舞台=家族と寝起きをする住居と、お互い助け合って生活を送る集落



共同生活を営む彼らにとって住居と集落は、単なる生活の場ではなく、所属する社会や文化を具現化した場所だった



住居や集落の形態も時期によって変化する。

ここでは典型的な縄文集落の、岩手県西田遺跡を見ていく。



a西田遺跡

 西田遺跡は縄文時代中期から後期の集落址

東北新幹線の建設に伴って発掘が行われたため、遺跡全体ではなく、線路の幅だけの調査だが、縄文時代の集落の全体像を明らかにした。

 中心の広場に墓穴が掘られ、その周りに掘立柱の建物がつくられ、さらにその外側には竪穴式住居群や貯蔵穴群が取り巻いている、同心円状の構造。



死者の世界を中心に、その外側に住居が営まれている。



さらに詳しく見てみると、死者の世界は中心部の2列に並んだ十数基の土壙墓からなる内帯と、それを放射線状に取り囲む約180基の外帯にわかれており、調査者によると外帯の土壙墓は12のグループに分かれる。外側の生者の世界も、掘立柱の建物群からなる内帯と竪穴式住居群と貯蔵穴からなる外帯に分かれる。



 この集落の形態から西田遺跡の社会を大胆に読み解いてみる。



b西田ムラの社会

 まず、ムラ全体が、中心から同心円を描くように整然と作られており、人々は「西田縄文ムラの構成員」として一致団結し、強い社会的規制の上に生活していたことがわる。その規制の中心はというと、円の中心にある土壙墓、つまりご先祖様ということになる。祖先神を祀り、その系譜に自分たちを位置づけて、社会を維持していた。遺跡からはたくさんの住居址が検出されているが、すべてが同時に存在したわけではなく、一時期に、住居址や掘立柱建物を含む、数軒の小さなまとまりが、いくつか存在したと考えられる。竪穴式住居には炉があり、一軒の家の中で、一つの火を囲む母と子供というイメージが浮かび、いわゆる核家族であり、一世帯と考えられる。父親は、一家に一人と決まっていたかどうか不明である。縄文時代、一夫一婦制だったかどうかわからないからだ。2から3軒に一人かも知れないし、1軒に2人かも知れない。民族例からは、前者の場合が多いと考えられる。数軒の小さなまとまりは、世帯の集まりで、世帯共同体と考えられ、一夫多妻制の場合、父親と母親達、その子供達というような大家族にあたる。外帯の土壙墓が12のグループに分けられるとしたら、同心円状の区画もつ集落形態から考えると、12程度の大家族の集まりが西田縄文ムラを構成していたことになる。

 ところで、集落の中心は2列に並んだ十数基の土壙墓です。ということは、西田縄文ムラの家族群は、2つの祖先神のどちらかにつながっているということが想像できる。中心部に葬られた人々はムラのリーダー的存在で、自分の祖先神の列へ埋葬され、一般の人々は外帯に葬られたと考えられる。リーダーと一般の人々とは若干の格差が認められる。

 貯蔵穴が竪穴住居の近くから検出されることから、消費財は各世帯で保有することになっていたと推測できる。掘立柱建物の用途や、竪穴式住居群との差はよくわからないが、より中心に近いことを考えると、竪穴式住居群よりも重要な意味があったと考えるべきである。それぞれの大家族に属した建物だろうから、大家族単位で祭祀を行なった場や大家族のリーダーの家、大家族で管理する物資の保管場所などであったかもしれない。どの解釈を採用するかによって縄文社会のイメージが大きく変わってしまいまうが、ここでは墓域に近いこと、竪穴住居址群との間に空間があること、掘立柱建物や平地式住居に比べて、竪穴住居は居住性が良いことから、祭祀の場としておきたい。



8,流通

定住生活している縄文人→必要なものすべてを自分のムラの中だけで調達することは不可能。

  ↓

したがって他から分けてもらう

彼らは近場のものだけではなく、遠隔地の物資をも調達することができた。

青森県の三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石、岩手県久慈産のコハク、秋田産のアスファルト、新潟糸魚川産のヒスイなどが出土。



このような現象は三内丸山遺跡だけではなく、ほとんどの縄文の遺跡で見られる現象。



a黒曜石の流通

 黒曜石→遠隔流通

黒曜石はガラス質の花崗岩で、割れ口が鋭利で加工しやすい



    (  )の材料として利用

黒曜石は理科学的方法や、時には肉眼によっても、その原産地を特定できる場合がある



原産地は全国で40カ所ほどが知られている。

なかでも北海道十勝、長野県和田峠、神奈川県箱根、東京都神津島、島根県壱岐島、大分県姫島、佐賀県腰岳の黒曜石→200キロ以上も離れた遺跡から出土



神津島の黒曜石=近くに箱根の原産地があるにもかかわらず、海を渡って本州に運ばれて流通→伊豆半島には神津島産の黒曜石を多量に出土した遺跡が存在



和田峠に近い鷹山遺跡群では、大規模な黒曜石の採掘坑と、石器製作址が調査されている。



八ヶ岳山麓には黒曜石を貯蔵した遺跡が、20カ所以上発見。

その一つ長野県塩尻市の中島遺跡第19号住居址からは、5~7センチ角の黒曜石を貯蔵した穴が検出=石材は、このような大きさで流通したと考えられる。



 九州にも黒曜石の原産地は多く存在→遺跡から出土する黒曜石は、姫島産と腰岳産のものが大半



中国・四国地方や(  )釜山市東三洞貝塚からも出土



なぜ近場の黒曜石より遠くの、決まった場所の黒曜石が流通か?



b交換の原理

 たとえば、東京都中里貝塚の干し貝と長野県和田峠の黒曜石を交換しようとすると、その間をつなぐ集落に、流通ルートと交換のシステムが確立していなければならない。



このルート上では、いろいろな物資や情報が交換されていたと考えられる。

↓いわば

    ネットワーク化された社会

中里貝塚を形成した人々や、和田峠の黒曜石を採取した人々は、食糧確保など、生活に必要な生産に費やす以外の時間や人手を、干し貝や黒曜石の生産に費やし、このネットワーク上へ乗せることによって、他の品物を手に入れていた。

       ↓単純な対面による物々交換の原理だけではない

何らかの市場原理が働いていた



農耕社会や貨幣経済のように、富の蓄積と収奪による貧富の差の拡大が認められない縄文社会において、この市場原理を支えていたのは、(   )だと思われる



互酬性

 互酬性は今の私たちもよく経験する

お隣の奥さんが「たくさん作りすぎたから」といっておかずを分けてくれたりすることがある。奥さんは「作りすぎた」のではなく、はじめからたくさん作って分けてくれる計画だったことは一目瞭然。これが互酬性の最も単純な例



本質はお互いが相手のことを思いやり贈り物をする行為



縄文時代の互酬性とはお歳暮が複雑化・システム化したようなもの

「Aさんからはハムが来るし、Bさんは毎年ビールだから、ハムとビールは買わなくてすむ。私はいつも食用油のセットだから、AさんもBさんも食用油がもらえることを期待しているはず」と、お互い、相手の贈り物を期待する。期待されれば、その期待に添おうとする。



縄文の人々も期待された干し貝や黒曜石をたくさんとった



互酬性によって、贈り物を相手に渡すとき、知らない人に渡しても見返りがなかったり、相手からの返礼に不満があったりする

↓そのようなリスクを回避ため

必ず、知っている人と、決まったものを贈りあい、交換しあうことが行われる。

=交易パートナー制



また、いつも決まった仲間で集まって、余ったものを交換したり、お互い融通しあったりする=交易仲間制と呼ぶ



・マーシャル・サーリンズの互酬性

 マーシャル・サーリンズ→互酬性は3種類に分類

 ①「一般化された相互性、連帯性の極」は愛他主義的な互換活動で、いわゆる「贈与」

 ②「均衡のとれた相互性、中間点」は直接的な「交換」

 ③「否定的相互性、非社交的な極」純粋に功利主義的な利益をめざして公然と行われる互換活動。値切り交渉や、物々交換、投機、詐欺、窃盗なども含まれる。



一般に、暴力的な行為の方が物資を求められやすい場合以外は、非暴力的な平和的共生によって経済活動が行われますが、経済的摩擦が社会的問題を引き起こすことを避けるために、いろいろな手段が講じられる。その一つとして、交易パートナー制や交易仲間制があり、交易パートナー制においては、お互い贈与関係を結ぶことで、対外的な経済活動を連帯的な社会関係のなかに組み込んでいる。



縄文時代の社会も交易のパートナーを決めて、お互い贈与関係を結んでいたと考えられる。



・ヒスイの流通

 ヒスイは新潟県糸魚川市姫川流域が日本で唯一の原産地。

原産地近くの新潟県寺地遺跡ではヒスイ工房跡が発見された



この地域で生産されたヒスイの大珠は、広く東日本に分布。

ヒスイの大珠は装飾品で、生活必需品というわけではない→なぜ、遠くまで運ばれたか?



贈与という互酬活動によって、交易パートナーのネットワーク内に広まった



・サヌカイト

 関西地方を中心として中国地方・四国地方・中部地方では、石器に黒曜石ではなく、サヌカイトという石が、先土器時代から使用されている。

↓この地方に黒曜石が産出しなかったことが原因

黒曜石を流通させる交易ネットワークが確立する前に、すでにサヌカイトを流通させる交易ネットワークや、サヌカイトを利用した石器製作技術が確立していたのではないか?



両方のネットワークは、混じり合いながら広がりを見せている



      反目するような関係ではない。

 縄文時代の人々は、自然との共存の上に、山の集落は山なりに、海の集落は海なりに地理的な特長を生かした生産体制を確立していた。さらにそれぞれの集落は社会的ネットワークに属し、自分の集落にはないものを、ネットワークの流通ルートを通して、互酬性の原理のもとで取得していた。





9,衣服と装身

a衣服

 衣服自体が完全な形で残っていた例はない



漁網、編籠、網代などを製作→繊維の編物工芸はかなり進んでいた。

衣服は、植物繊維、樹皮、毛皮などを材料として作られていた

繊維を撚って糸を作成→縄文土器につけられた縄目の模様からもわかっている



北海道斜里町朱円遺跡 撚った糸を編んで布としたものが人骨に付着して発見。

福井県鳥浜貝塚や宮城県山王遺跡では、植物繊維の撚糸を編んだ布が出土



 どんな服装だったのかは不明



土偶や岩偶に服装の表現を見ることができる。

愛媛県上黒岩岩陰遺跡から出土した早期の岩偶には、腰蓑が表現されてる

後期の土偶には髪飾りや耳飾り、模様をつけたブラウスやズボンの表現がある



b装身

装身はおしゃれだけでなく、呪術的・儀礼的な意味もあった。

男女でその装いは違ったし、年齢や所属する社会によっても違っていた。



 装身の手段には大きく二つに分類

一つは装身具を身につける方法で、髪飾りや耳飾り、首飾り、貝輪、腰飾、仮面など

もう一つは、入れ墨や抜歯など、身体加工を施す方法。



・山鹿貝塚の装身具

 当時の装身具の使い方がよくわかる例→福岡県山鹿貝塚の縄文時代後期の第2号人と第3号人の埋葬例

二人とも女性で、両者の間に乳児が埋葬されていた。

第2号人はサメ歯製の耳飾をつけ、貝輪を右腕に5個、左腕に14個、硬玉の大珠と鹿角(ろっかく)製垂飾具を2つ胸に着装

第3号人は右腕に11個、左腕に15個の貝輪をはめ、頭に骨製笄(こうがい)2本をさしている。

・身体加工と抜歯

身体加工では、入れ墨の発見例はない



岩手県萪内(しだない)遺跡の晩期の土偶や長野県葦原遺跡の中期の土偶には顔に入れ墨を施したような表現が見られる

ます。



抜歯の例→数多く出土

抜歯は口を開けたときに見える切歯・犬歯・第一小臼歯に行う

切歯→(    )=フォーク状に切り込みを入れた例もある。

渡辺誠は、抜歯が通過儀礼であることから、年齢によって秩序づけられた年齢階梯社会を想定



春成秀爾は、性別や出自集団によって抜歯形態が違うと考えて、墓域から出土する抜歯形態の検討。それによって、西日本では、婚姻によって夫が妻の集団へ婚入する、妻方居住婚が一般的であったのに対し、縄文時代晩期の東日本では妻が夫の集団へ婚入する、夫方居住婚になったと推定し、縄文時代の社会構造と東西日本の違いをあきらかにしようとした



10,精神文化

 生活の基盤を自然に依存していた縄文の人々にとって、自然の変化は、そのまま彼らの生死に直結する問題



彼らは自然の力を恐れ、敬い、繁栄や天の恵みなど、自然の力や生産力の増強を願う祈りを捧げた。

今日、その内容を詳らかにすることはできないが、護符のような土版、男性性器をかたどった石棒、土偶などに自然に対する縄文の人々の精神文化の一端を垣間見ることができる。



a土偶

土偶は縄文の人々の精神文化を代表する遺物



縄文時代全般に見られる

形は、地域や時代によって変化



人形を表現した、先土器時代のこけし状の石偶が、大分県岩戸遺跡から出土



顔に表現の中心があり、縄文時代の土偶とは違い、大陸の旧石器時代との関係



縄文時代の土偶につながるもの



愛媛県上黒岩岩陰遺跡の石偶

扁平な川原石に、乳房と腰蓑を線刻したもの



最古の土偶は、三重県粥見井尻遺跡出土の草創期のもの



草創期・早期を通じて土偶は、板状の粘土に乳房や手足を表現

↓しかし

顔の表現はない

日本の土偶は、女性の乳房を表現し、自然のなかの生まれて育つ力を祈るものだった



 前期 地方差が現れる

東北地方では逆三角形の土板状もの

関東地方では肉付き豊かな胴部が表現

甲信越地方では目や腕を表現



 中期 

東北地方では十字形の土板状の土偶→顔が表現

関東甲信越では全身像→自立土偶

長野県茅野市棚畑遺跡出土の「       」と呼ばれる土偶は、その到達点



原田昌幸 子孫繁栄や安産祈願に始まった個人レベルの祭祀が、自立土偶によって、村落を基盤とした共同体レベルの祭祀にも用いられるようなったと考えている。



後期 土偶の製作が西日本にも広がる



土偶祭祀が汎日本的なものとなる



東北地方は引き続き板状→手足を備えるようになる

関東地方ではハート型土偶や木菟土偶が製作



 晩期

東北地方で亀ヶ岡式土器に伴って遮光器土偶

東海・甲信地方では鯨面土偶



その後、中部東海地方では土偶形容器が製作される



土偶の意味に変化

神奈川県中屋敷遺跡出土の土偶形容器には小児骨が納められており、埋葬の道具として使用





11,埋葬

 死者を葬る行為は人類だけが行なう





そこには死者に対する生き残ったものの想いが込められている葬送の方法

 埋葬

 水葬 私たちが知ることができるのは 鳥葬など   土壙や貝塚に埋葬された例

 



埋葬の方法も、地域や時期によっていろいろな違いが認められる。



 早期

神奈川県横須賀市平坂貝塚の例は、遺体の上に薄く土をかけた程度

長野県栃原岩陰遺跡の埋葬例→手足を強く折り曲げた(  )

      胸の上に石を置いた、抱石葬もあった



屈葬=縄文時代の特徴の一つ

縄文的な死生観を代表

死者の魂が遺体から遊離しないように封じ込めたとする説

母なる大地へ返すため母親の胎内にいたときとおなじ形にしたとの説

穴を掘る労力を省いたという説



時期を経るにつれ、屈葬から伸展葬へという大きな流れがある



イヌの埋葬=古くからイヌと人間とはパートナーとして結ばれていた



 前期

 集落の形態が確立するのに伴い、中央広場に埋葬されるようになる 土壙墓の上に石を配した、配石遺構を伴う場合もある

長野県阿久遺跡など



 中期

 集落中心の墓地のほか、土器を住居の床下に埋めた、埋甕が出現

    ↓

幼くして死んだ幼児を納めたもの



 晩期

東北地方・北海道で、環状列石や環状土籬などが作られる

秋田県大湯環状列石の野中堂と万座の2つの環状列石



西田遺跡のように二重の同心円構造をなしている。

北海道恵庭市柏木B遺跡の環状土籬→ドーナツ状の周堤帯の内部、周堤部、外園部にそれぞれ土壙墓が作られていた



埋められる場所の違いに、階層の違いなどの社会的意味があった

遺体をそのまま埋めた一次埋葬だけでなく、骨を一度掘り起こして、土器に入れたり、頭蓋骨だけを集めたり、骨をくみ上げて納め直したりなどして再葬する、二次埋葬も行われていた。





12,縄文時代の終わり

 温暖化→縄文時代前期にピーク



中期後半以降、温暖化と冷涼化を繰り返す



自然環境に依存していた縄文社会は、大きな影響を受ける



晩期 さらに冷涼化が進み、落葉広葉樹林が後退

      ↓

縄文文化はしだいに崩壊



冷涼化による海退→河川によって内陸から運ばれた土砂による、広い洪積世低湿地を発展→水田耕作に適した土地を生み出した



 このころ、北部九州には、大陸から、新たな生産技術の稲作農耕が伝わってきた

Ⅳ 弥生時代


 「縄文」という名前→エドワード・S・モースが大森貝塚から発見した土器に由来

 「弥生」という名前→東京大学隣接地の本郷弥生町向ヶ岡貝塚(現在、文京区弥生)において、有坂鉊藏・坪井正五郎らが見つけた一つの壺に由来



蒔田鎗次郎が縄文土器との違いに注目して、この壺を弥生式土器と命名



この土器を製作・使用した時代を、弥生時代と呼ぶようになった



弥生時代とはどんな時代だったか?

 弥生時代を一言で言うと、「  を中心とする農耕を営み、 と   を使い始めた時代で、古墳を造る前の時代」ということができる



弥生時代は、日本で初めての水稲農耕文化

 わたしたちが田舎を思い浮かべるとき、水田と農家・裏山・小川・トンボやカエルなど、里の風景を思い浮かべる。私たちの心の中に息づく原風景は、まさしく弥生時代にはじまる風景だと言うことができる。



1,弥生文化のはじまり

水稲農耕の技術を持った人々→海退の後の低湿地に水田を作り始め、開墾や燃料にするために木を切り倒し、(  )を改変して、新しい生産体制を築いた



縄文文化を保持していた人々にも稲作や、それに伴う弥生文化を受け入れることは、さほど難しいことではなかった。



縄文時代にも植物栽培や管理が行われており、一部焼き畑も行われていたと考えられ、水稲耕作を受け入れる下地は十分にできていた



そのうえ、気候の変化により縄文文化は衰退の道をたどっていたことから、水稲耕作と弥生文化はまたたく間に広がった。



a水稲耕作とクニのはじまり

 クリやドングリ、エゴマ、ヒョウタン

 長崎県筏遺跡では縄文時代後期の土器にモミの圧痕

 岡山県南溝手遺跡の土器の中→プラント・オパール(イネに含まれる植物珪素体)

 熊本県上ノ原遺跡や福岡県法華原遺跡では炭化米



縄文時代後期にはイネを栽培していた

     ↓しかし

主体的なものではない=狩猟採集生活の延長線上



(  )の蓄積を行なっていなかった



 弥生時代=積極的に自然を改変し、水田で食料を生産する

        ↓

 生産経済の段階

 水田を広げ、生産力の増大をはかり、余剰を蓄積

 余剰=富→富の蓄積=持つものと持たざるものをつくる



「持つもの」は「持たざるもの」を服従させる→地位が固定化

       ↓

貧富の差は身分の別→(  )の分化



水田耕作→水路を作って川から水を引き、畦をつくり、いっせいに田植えや稲刈りを行なう→ムラ全体の共同作業が必要



田植えのために水田に水を引くときには、上流のムラと下流のムラで調整が必要



ムラの共同作業をとりまとめ、他のムラとの交渉するためにはリーダーが必要

リーダーのもとで、共同作業の調整やトラブルの解決、農耕儀礼、他集団との交渉などがなされた



重要なポストにあるムラのリーダーに、富が集中



・ムラとムラの交渉ごとにはお互いの利害関係が絡み、「水争い」などの紛争を招く

・生産力の増大をはかり、ムラ同士の協力のもと、鉄製農耕具を利用した、大規模な水田開発を進める



各ムラ間、各地域間で闘争や併合、服属を繰り返すことにより、権力の集中が行われ、「クニ」が生まれた

b稲の起源と伝播

 1974年、福岡県板付遺跡で縄文晩期の土器とされていた夜臼式土器が出土する層から水田址が発見



 畦や排水溝が作られており、水稲耕作のために土  木工事を行なってた

 諸手ぐわ・えぶり・鍬などの木製農具や収穫具の  石庖丁が一緒に出土



佐賀県菜畑遺跡では夜臼式土器より古い、山ノ寺式土器に伴う水田址が検出



日本の稲作は、本格的に導入された当初から必要な技術や道具がそろっていたことが判明



水田耕作の技術は日本で独自に発明されたものではなく、先進技術として(   )によって大陸から伝えられたもの



・稲の起源

 それでは、稲作はもともとどこで始まったか

  ↓かって

稲の起源はインドのガンジス川流域の低湿地と考えられていた



植物遺伝学の立場

インドのアッサム地方から中国南部雲南省の南部にかけての地域が起源説



1980年代に中国の長江下流域浙江省河姆渡遺跡 7000~6500年前の稲作の跡が発見

中流域の湖南省彭頭山遺跡では9500~8000年前の稲作跡も発見



雲南省で発見された稲作の遺跡よりもはるかに古い遺跡が、中国長江中・下流域に存在

↓これにより

日本に伝来したジャポニカ米は(  )中流域から下流域に起源がある

・日本への伝播

 イネの道=長江中・下流域から日本へ→大きく5つの説



 1,北回り説と呼ばれるもので、中国北部から朝鮮半島の付け根を回って南下して北部九州へ伝来したとする説。

 2,山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島を南下して北部九州へ伝来したとする説。

 3,中国北部から朝鮮半島西部へ渡り、南下して北部九州へ伝来したとする説。

 4,直接渡来説と呼ばれるもので、長江下流域から直接日本に海を渡ったという説。

 5,南回り説と呼ばれるもので、沖縄諸島などを経て九州へ渡来したという説。



韓国と北部九州の間では縄文時代前期から交流があった



考古学者は、朝鮮半島南部から北部九州に水稲耕作が伝えられたと考える=1から3の説



しかし、植物遺伝学→弥生時代のイネの中に朝鮮半島にはなく、中国にある品種が混ざっていることが発表=4と5の説も簡単には否定できない



稲作文化は、たった1度はなく、何回かに分けて日本に伝えられたと考えられ、一つのルートに限定して考える必要はない



 日本は島国→稲作の伝来には舟を操る漁労民の関与を疑うことはできない



漁労民によって、いろいろなルートで何度も伝えられた種籾や農耕技術のうち、朝鮮半島から農耕の道具を持った、比較的大がかりな一団が北部九州へ根を下ろし、水稲耕作を始め、それが日本全国へ広まったと考えることも可能



・松菊里文化

 考古学遺物から

菜畑遺跡や板付遺跡などの初期(早期)水稲耕作文化と様相が似ている



朝鮮半島の松菊里文化

松菊里文化を代表するのは忠清南道の扶余に所在する松菊里遺跡



紀元前5~4世紀頃の水田稲作を伴う遺跡





  ・集落の周囲に濠や柵を回らした=環濠集落

  ・住居址は、中心に土壙があり、その両側に柱   穴を持つ形態=松菊里型住居



  ・石庖丁・・・稲穂を刈り取る

  ・大陸系磨製石器  太型蛤刃石器 ( )

   扁平片刃石器 ノミ

  抉入柱状片刃石器チョウナ



  ・石棺墓などの埋葬施設 

  ・石鏃や石剣



  環濠集落=板付遺跡で検出→日本に水稲耕作を伝え   た人々が営んだ集落形態

  松菊里型住居址も弥生時代前期から中期の遺跡で散  見

  石庖丁や大陸系磨製石器も日本の遺跡から出土

  石棺墓などの埋葬施設や、石鏃や石剣も日本か  ら出土

      ↓これらのことから

 松菊里文化をもった人々が北部九州へ渡来し、水稲耕作を伝えたと考えられている。





・燕と水稲耕作

松菊里遺跡→琵琶のような形をした遼寧式銅剣が出土

遼寧式銅剣→中国東北部から朝鮮半島にかけて分布



イネの道の北回り説と合致

日本=福岡県今川遺跡から遼寧式銅剣を改造した銅鑿や銅鏃が出土



 紀元前5世紀頃→中国=春秋時代~戦国時代

中国東北部→( )



朝鮮半島に影響を与えた

、遼寧式銅剣の分布からも想像できる

燕の昭王 紀元前311年に東北地方へ進出して五郡を設置→最盛期には朝鮮半島の一部もその支配下に置く

     ↓しかし

紀元前222年 ( )によって滅亡



・衛子朝鮮と青銅器

戦国時代 中国人によって箕子朝鮮樹立

紀元前195年 衛子朝鮮が樹立



紀元前174年 箕子の王だった箕準→南方に追放され→辰国で韓王と称する



紀元前109年と108年に衛子朝鮮→前漢武帝によって滅ぼされ→楽浪郡などの四郡が置かれることになった

 ↓ 箕子朝鮮は考古学的に証明されていない

中国東北部や朝鮮半島のこのような動きが、日本に影響を与えている



森貞次郎 紀元前311年、燕の昭王が東北地方へ進出した余波を受けて、日本に水稲耕作がもたらされ、紀元前195年の衛子朝鮮の樹立によって、弥生時代前期末、青銅器が日本に伝来した



2,弥生文化の東遷

 北部九州に伝来した水稲耕作は、ゆっくりと東へ広がり、また、東北地方は冷涼であったこともあり、弥生時代の水田はないと考えられていた

     ↓

1981年、青森県垂柳遺跡で弥生時代中期の水田址が発見

1987年に青森県砂沢遺跡から、弥生時代前期の水田址が発見

   ↓

弥生時代前期に、水稲耕作が青森県まで急速に伝わったことがわかった

   ↓さらに

青森県松石橋遺跡で、九州の土器を模倣した遠賀川系土器が出土



遠賀川式土器

 弥生時代前期の土器で、九州の板付式土器とイメージで作られた土器を、遠賀川式土器、あるいは遠賀川系土器と呼ぶ。

その名称は、立屋敷遺跡の遠賀川河床から発見された土器に由来

北部九州板付Ⅱ式以降に編年される、弥生時代前期の土器

 ↓

遠賀川式土器は丹後から伊勢湾を結んだラインを東限として、広く西日本に分布



遠賀川式土器を模倣して作られた土器を、遠賀川系土器とよび、その分布は青森県にまで及ぶ



 とくに壺が有名→そのスタイルには、「こんなふうに作らなければならない」というイメージがある



水稲耕作の広がりに伴って、この壺のイメージが広がったものと考えられる



壺には何か入れていた→農耕にとって大切なもの



必ずこの形の壺に入れなければならないもの



種籾ではなかったか?

砂沢遺跡の水田や松石橋遺跡の遠賀川系土器は、水稲耕作を伴う弥生文化が、あまり時間を置かず、急速に東北地方まで広まったことを証明した。



3,弥生時代の年代論

a弥生の区分

 近年、弥生時代は、早期(先Ⅰ期)、前期、中期、後期に区分

早期 縄文晩期のうち、本格的な水稲耕作をおこなっていた時期を弥生時代に含めて早期とする

前期 板付式土器が代表 遠賀川式土器、遠賀川系土器を含む時期



  北海道と南西諸島を除く日本全国で、水稲耕作を受け入れた時期



中期 列島各地で地域色を強めた時期 九州の須玖式土器 畿内の櫛描文など、土器にも地域色が現れる



後期 列島規模で社会的混乱が生じた時期 次の古墳時代へと続く時期



b暦年代

 弥生時代の暦年代

早期 紀元前5~4世紀後半ないし紀元前3世紀初頭

前期 紀元前4世紀ないし紀元前3世紀初頭~前2世紀

中期 紀元前2世紀~後1世紀

後期 1~3世紀と考えてきた

↓これらは

 中国や朝鮮半島から出土する鏡の編年と照合

 銅剣の編年を考察

↓とくに年代がはっきりしているもの

・中国の(  )

長崎県原の辻遺跡や大阪府瓜破遺跡で、後期初頭の遺物と供伴した

 貨泉は、中国の新を建国した王莽が鋳造させた貨幣

新は8年から23年の15年間しか続かず、貨泉が鋳造された時期は、この間に限られている

↓したがって

弥生の後期初頭は1世紀



・金印

後漢を建国した光武帝が(  )年、奴国の使者に対し「漢委奴国王」の印綬を渡したことが『後漢書』東夷伝に書かれている



金印が福岡県志賀島から出土



・中国の『魏志』倭人伝には、卑弥呼が239年に使者を送ったことが書かれたおり、これが弥生時代後期末から古墳時代初頭と考えられている

・佐賀県宇木汲田遺跡で、板付Ⅰ式の土器を出土する層位から出土した炭化米→放射性炭素年代測定法によって、紀元前275年と測定された

 ↓よって

弥生時代前期は紀元前3世紀とされた

↓ただし

この測定は較正を行なっていない



・弥生時代中期後葉の大阪府池上曽根遺跡から出土した柱→年輪年代測定法で、紀元前52年と測定



弥生時代の中期の終わりが紀元前1世紀



c新たな暦年代と年代観

2003年 歴史民俗博物館の研究チーム AMS法による放射性炭素の測定を較正した結果を発表

九州北部の弥生時代早期と前期、夜臼Ⅱ式と板付Ⅰ式の土器に付いた「お焦げ」や「ふきこぼれ」などを計測

 ↓その結果

11点の資料のうち10点から紀元前900~750年の年代を示す値



北部九州の弥生時代早期は紀元前1000年ごろにまでにさかのぼる可能性がでてきた



春成秀爾

     早期 紀元前10~9世紀

     前期 紀元前8~4世紀

     中期 紀元前4~後1世紀

     後期 1~3世紀



・日本の水稲耕作は、中国西周王朝の成立に伴い、亡命してきた渡来人によってもたらされた

・列島各地への広がりも、急速なものでなく、その開始から数百年ほどかけて緩慢に、日本列島各地に普及・定着していったことになる



<問題>

鉄器・・・ 紀元前10世紀 中国では隕鉄が利用されている状況

      朝鮮半島では、その出土例がない

↓ところが

日本では、福岡県曲り田遺跡から弥生時代早期の板状鉄斧が出土



中国や朝鮮半島よりも早く鉄製品が普及していることになる

曲田遺跡の鉄斧=焼きなまして脱炭した鋳造品→その技術は、中国では戦国時代の紀元前5世紀にならないと出現しない



 現在のところ、どちらの年代観が正しいのか結論は出ていない。

今後、研究が進むにつれて、また新しい年代観が発表される可能性がある。

↓いずれにしろ

弥生時代の歴史観は変革の時代を迎えた



4,鉄器と青銅器

 弥生時代の特徴 水稲耕作

         金属器の使用=鉄器と青銅器

ヨーロッパや中国→先に青銅器、後で鉄器が使われ始める

日本への伝播→大陸で鉄器が使われ始めてから→両方ともほぼ同時に使われ始めた

鉄器と青銅器の特質の違い 堅くて丈夫な鉄器は実用の道具

             柔らかくて加工しやすい青銅器は祭りの道具



a鉄器

 鉄器 中国の殷代には(  )を原料として、少量使用されていた



戦国時代 鉄鉱石を還元して取り出した銑鉄で作られた農耕具が普及

 中原の魏 鋳造の鉄器文化

 中国南部の楚 鍛造の鉄器文化



日本で出土した最古の鉄器=福岡県曲り田遺跡出土の弥生時代早期の鋳造板状鉄斧

熊本県斉藤山出土の弥生時代前期の鉄斧→鍛造



中国南部との関係を否定することはできないが、弥生時代中期までは日本に鋳型や工房などの検出例がない→中国東北部の燕と呼ばれた地域を源流とする鋳造鉄器が、日本にもたらされ、それを石器の技術を使って再加工していたと考えられる



 中期末→日本にも鍛冶工房が出現

↓しかし

鉄の素材は中国・朝鮮からもたらされた鉄片や鉄の棒で、日本で鉄鉱石を採掘することはできない

↓よって

鉄器の供給量も十分ではなく、弥生時代の末まで石器も使われ続ける



鍛冶工房は北部九州に出土例が多い→大陸と近い、この地域に鍛冶技術がもたらされ、先進技術と大陸からの鉄素材の受け入れ窓口として日本全国をリード



手斧・斧・刀子・鑿・鉇・鍬先・鎌などの農工具

鏃・刀などの武器



鉄は実用利器を作る材料として使われた



鉄戈 中期後半から後期の始めにかけて、九州だけで出土している遺物



戈は柄に対し刃を横方向につけた武器で、古代中国の戦いで、戦車同士すれ違いざまに相手を突き刺したり、引っかけたりするもの→中国では、戈は青銅製・・日本には戦車はない→鉄戈は実用品ではなく、権力者の武威を象徴する儀器だったと考えられる



b青銅器

 青銅器は、鉄器と相前後してもたらされた

現在、最も古い青銅器→早期の福岡県今川遺跡の銅鏃や銅鑿=遼寧式銅剣を加工して作られた

前期末から中期初め 武器類の銅剣・銅矛・銅戈や多鈕細文鏡・鉇・小銅鐸が朝鮮半島から輸入



北部九州では、集団のリーダー的人物の甕棺や、特定の有力家族グループの墓に納められる



青銅器は伝播してまもなく生産が始まる



北部九州では、武器類以外の生産はほとんど行われない

銅鉇→日本ではほとんど作られることがなかった

青銅器 ほとんどは祭り用の道具か、所有者の権威を示す威信材であった

例外・福岡県永岡遺跡第2次調査出土K-100・K-95 銅剣が人骨に突き刺さった例

  ・長崎県根獅子遺跡の銅鏃が頭蓋骨に刺さった例



九州 青銅器は個人の墓に納められることが一般的



祭祀の実行権が個人や特定家族に帰属していることを物語っている

中期後半以降 青銅の武器にかわって、中国鏡が墓に副葬されるようになる



近畿地方 銅鐸や武器形青銅器=個人の墓から出土することはない



穴に埋納された状態で発見される



集団の祭祀用の道具として用いられ、その所有権は個人ではなく、祭祀を執り行なった集団に帰属し、使用後は穴に埋められた



 どちらの地域でも、青銅器は、実用品から巨大化し、視覚に訴える祭器へと変化



5,青銅器の祭り

a九州の青銅器

 北部九州 細形武器から中細形・中広形・広形へと大型化

広形の銅矛は、大型で振り回すことは難しく、刃もないので、切ったり刺したりすることもできず、実用とはほど遠いもの



 青銅器と、それを出土した墓の変遷との関係から、祭祀の変化や、王権の成長の様子も明らかになってきた



前期末から中期前半の北部九州 群集墓のなかのいくつかの甕棺で、細形武器(剣・矛・戈)・多鈕細文鏡・銅釧が発見される

福岡県吉武高木遺跡 他の墓と違って標石があり、有力者の墓だと考えられる第3号木棺墓から、多鈕細文鏡1・細形武器・勾玉1・管玉95個が発見

↓このことから

特定の有力家族が台頭し、しだいに王と呼ばれる存在へと成長していく過程にある



中期には中細形式の武器が作られる

須玖岡本遺跡や三雲遺跡では、特定の甕棺に30面以上の前漢鏡を納めた墓が発見



まさに(  )と呼べるものが出現

佐賀県吉野ヶ里遺跡では南北40メートル、東西26メートルの墳丘をもつ王墓と、その家族と思われる人々の墳丘墓が検出されてる



後期 中広、広形の銅矛や銅戈が製作

個人の墓に納められていた青銅器は、共同体の祭祀の道具へと変化



後期後半には、全国に、青銅器に特徴を示す祭祀圏が形成される

福岡県平原遺跡では方形周溝墓に割竹形木棺を安置し、墓穴の四隅に39面の後漢鏡や、4面の大型鏡・鉄製大刀・玉類が納められていた



平原遺跡は、『魏志』倭人伝に登場する伊都国の王墓



b銅鐸について

・銅鐸の変遷と特徴

 近畿地方 朝鮮半島の銅鈴を祖型とした銅鐸が製作される

朝鮮半島や北部九州でつくられた朝鮮式銅鐸は無文→日本の銅鐸は表面に装飾をすることに意味があった→しだいに巨大化し、装飾を加える場所を増やしていった



田中琢 この変化を「  銅鐸から  銅鐸へ」と表現



 もともとはつり下げる吊り手の鈕→装飾の対象=断面菱形の菱環鈕から、菱形の吊り手の外側に装飾部分をつけた外縁付鈕、内側にも付けた扁平鈕、外側にさらに装飾部分を広げて、突線を付けた突線鈕へと変化



銅鐸 一人では持ち上がらないほど巨大化

初期の菱環鈕の銅鐸は高さ23センチ前後→巨大化したものは滋賀県大岩山出土1号銅鐸のように、高さ144センチ、重さ45キロにもおよぶ



突線鈕の段階→ 地域の違いが生まれる

 近畿式銅鐸 鈕や外側の鰭に二頭渦文をもつ

 三遠式銅鐸 鈕には二頭渦文が付かないタイプ、三河から遠江を中心に広がる



 文様 格子を施した縦横の帯によって区画された袈裟襷文

    三条の横帯で区画された横帯文

    水の流れを現したような流水文



これらの文様と組み合わされて、シカ・イノシシ・スッポン・サギ・カマキリ・トンボ・ヒト・家など描かれている

狩猟の場面や喧嘩のような場面など、物語が描かれたものもある



弥生人の生活に身近なものを描いている



描かれた絵には、年中行事や季節感を描いたとする説や豊作を祈ったとする説など、いろいろな解釈がある



・銅鐸と埋納

 銅鐸の多くは、埋納された状態で発見



ほとんどの場合、1~4個が埋納されて出土することが多い

↓なかには

島根県加茂岩倉遺跡=39個が出土

滋賀県大岩山遺跡=29個 大量に埋納された例

兵庫県桜ヶ丘遺跡=14個



 1~4個の銅鐸を埋納したもの

・普段は穴の中に埋納しておいて、祭りのたびに取り出すという説

・土の中に埋めることに意味があったという説

・土の中に隠して退散したという説

・古墳祭祀という新しい祭祀が出現したため、銅鐸を土の中に埋めたという説



大量埋納には別の論理が働いた



・拠点集落が持っていた銅鐸を、有力な首長が、これらの集落を支配する過程で集めたとする説

・対立する九州と東海に対し、近畿の政治勢力が結界を張ったという説



 加茂岩倉遺跡で発見された39個の銅鐸

 荒神谷で発見された銅鐸6個、銅矛16本、中細形銅剣358本



また別の解釈がされている→後述



c青銅製祭器の地域性

弥生時代後期 主に青銅製の祭器に分布の違いが現れる

九州地方は広形銅矛・銅戈

瀬戸内地方は平型銅剣

山陰地方は中細形銅剣

近畿地方は近畿式銅鐸

三河遠江地方は三遠式銅鐸

銅製品の供給が少なかった関東・東北地方には、有角石器



祭器として分布圏を形成

6つの分布圏はお互い違う祭りを行なっていたということ



違ったカミを祭っていた

政治のことを、まつりごとというように、原始・古代では政治と祭祀は結びついていた

違ったカミを祭ること=政治勢力の違



弥生時代後期 これらの政治勢力が、お互いの存在を意識しつつ、成り立っていた社会



d出雲国の事情

 加茂岩倉遺跡や荒神谷で発見された青銅器には、また別の解釈がなされていると説明



加茂岩倉遺跡 中期中葉の銅鐸と、中期後半の銅鐸が出土

  中期中葉の銅鐸は西日本各地の銅鐸と同笵関係がある

  中期後半の銅鐸は出雲地方で作られ、×の印がつけられている



 加茂岩倉遺跡から、約3.4キロほど南東に位置



荒神谷遺跡 

 加茂岩倉遺跡と同じ×印を持った出雲鋳造の銅鐸

 中期後半の銅剣358本

 北部九州で鋳造された中広形の銅矛が16本出土



 ところで、中期末から後期には、近畿で鋳造された畿内型銅鐸とは別に、福田型銅鐸が鋳造される



福田型銅鐸は邪視文銅鐸とも呼ばれ、魔除けのための邪視を描いていることが特徴



分布=中国地方

鋳型は北部九州から出土



銅鐸祭祀の文化を持たない北部九州で鋳造され、中国地方へ渡された



森田稔の解釈

 弥生中期から後期にかけて、中国地方の有力な勢力の出雲は、対立関係にあった近畿と北部九州、双方の勢力に配慮して、出雲独自の銅剣の祭りを守りつつ、近畿の銅鐸祭祀も北部九州の銅矛祭祀も受け入れ、両者との同盟関係を構築しようとした



 北部九州は、もっと強固な同盟関係を望んで、出雲勢力に福田型銅鐸を贈った

これに対し、近畿の勢力は、神戸市桜ヶ丘に銅鐸を大量に埋納して、結界をはった



福田型銅鐸を贈られた出雲勢力は、後期には青銅器を放棄して、四隅突出形墳丘墓をつくりはじめ、独自の首長権継承儀式を執り行なうようになっていく。



九州と中国地方の同盟関係がどうなったかは不明



次の段階では、畿内を中心とした古墳文化が起こり、全国に広がる

畿内は、古墳の築造方法に四隅突出形墳丘墓から学んだ、(   )を貼る技法を取り入れている



出雲は九州との同盟よりも畿内との同盟を重視したのかも知れない

↓ただし

古墳には、鏡を埋納するという九州勢力の儀礼も取り込まれている

畿内の勢力が強大になったことは間違いないが、九州勢力がどのように古墳文化に取り込まれていったかは不明



コラム 「国ゆずり」と柳沢遺跡

 神話には「国ゆずり」のお話がある。

アマテラスは出雲国へタケミカズチを送り、オオクニヌシに国を譲るように話をする。オオクニヌシとその子コトシロヌシは国を譲ることを承諾するが、もうひとりの子タケミナカタはどうしても承諾しない。しかし、タケミカズチにはかなわず、信州の諏訪湖まで逃げる。



 この神話からもヤマト政権を造った畿内の勢力は、出雲の勢力に注意を払い、最終的に取り込んでいったことがわかる。



 2008年、長野県中野市の柳沢遺跡から、弥生時代中期の外縁付き鈕Ⅰ式の銅鐸と銅戈7本が、埋納された状態で出土(長野県埋蔵文化財センター2008「千曲川柳沢築堤工事関連 中野市柳沢遺跡の青銅器埋納坑・青銅器について」『平成20年2月29日付 記者発表資料』)。埋められていた場所の地形などは畿内の出土例に近いが、その出土の状況は、荒神谷での出土の様子と似ている



大阪湾型の銅戈に混じって九州型の銅戈1本がある。



 銅鐸・銅戈とも畿内の影響が強いことは確か→畿内の勢力が東日本の勢力に対して結界をはったという解釈も成り立つ

↓しかし

畿内から長野に行くと、途中、美濃勢力の地を通らなければならない

畿内勢力の直接の影響があったとは考えにくい

↓ここで想像を働かせれば

後期後半の四隅突出型墳墓は、日本海づたいに能登半島まで分布

後述する日本海文化ハイウエーを通って、さらに千曲川をさかのぼることは、さほど難しいことではない

神話のことも考慮



長野には出雲勢力と手を結んで、出雲勢力と同じような対応をした勢力がいた

これはまだまだ想像の域を出ないが、これからの研究の進展がたのしみ。



6,生活と社会

弥生時代は、縄文文化を基礎として、あらたに大陸の生活や文化を受け入れた時代



縄文時代は、互酬性のうえに成り立った社会

弥生時代は、(     )とその収奪によって特徴づけられる社会



新しい技術や社会の仕組み、文化・宗教観・価値観が大陸からもたらされ、人々は意識革命を余儀なくされた



大陸とおつきあいが始まり、大陸の政治情勢が日本に影響を及ぼしたり、また日本も大陸へ積極的にアプローチする。

↓しかし

縄文時代の人々の精神は、新しい文化や宗教観の中で、その時々で折り合いを付けながら、形を変えて受け継がれ、その源流は、脈々と生活や意識の中に流れ続けていきた。



a社会の単位

縄文時代後期にも炭化米の出土例がある

↓しかし

水田の発見例は弥生時代早期から

水田は畦によって区画されている

宇野隆夫は、区画は、水田の面積100~数百平方メートルにおよぶ小区画と、500~3000平方メートルに及ぶ区画、1万平方メートル弱の区画の大きく3つに大別でき、小区画は毎年作り直すもので、それ以上の区画が一筆にあたると考えている



この水田で供に働く人々が、弥生時代の生産活動の基本的単位となる人々



この基本的単位は、水田に残された足跡から割り出すことができる

↓また

消費活動の単位は、人々が生活した住居址の大きさや、住居址群のまとまりから推測することができる

墓地からは社会の構成も推測することがでる。



・足跡

 青森権垂柳遺跡の水田址では、足跡の分析から、年長者と若夫婦、子供3人が働いている様子が復元

大阪府池島・福万寺遺跡の水田址でも、大人3人と子供3人の足跡が確認



祖父母と両親、子供たちという構成で水田でお米を作っている



夫婦と子供の核家族(  )に、お祖父さんの家族をも含めた、家族(     )が生産活動の最小の基本的単位であった



・集落

 集落では、数棟の竪穴住居址がひとまとまりとなり、この、まとまりがいくつか集まって、集落を形成



一つの竪穴式住居には、その大きさから、3~5人程度が住んでいた

住居址には、それぞれ煮炊き用の炉があり、一つの住居に住んで、供に食事をしていた3~5人の集団は、核家族(世帯)→これが消費の単位



竪穴住居址数棟のまとまりは、10~15人程度の血縁関係にある家族(世帯共同体)が想定



集落は、世帯共同体の集まりによって形成



 水田の区画や水田址に残された足跡の検討、住居址の検討から、弥生時代は核家族(世帯)を数軒まとめた、血縁関係にある家族(世帯共同体)があり、この集団が農業経営や手工業などの生産を担う単位だったと推測



この小経営がいくつか連携してムラを形成



つまり、おじいさん夫婦と子供達夫婦、孫達が協力して田んぼを耕しており、このような家族がいくつかまとまって、一つのムラが成立



・山口県土井ヶ浜遺跡

一つのムラはどのようにしてまとまっていたか?



 ムラの構成を考える→土井ヶ浜遺跡は大変重要な遺跡

弥生時代前期の墓地である土井ヶ浜遺跡は、貝のカルシウム分の多い海岸の砂地に造られていたため、日本では珍しく、数多くの人骨が、非常に良い保存状態で出土



この墓地に葬られた人々の多くは抜歯をしている

抜歯は、その人の出自や所属集団などによって、抜く歯の場所が違う

抜歯の研究により、土井ヶ浜遺跡を形成したムラの人々は、母系制の社会で、男女同権か男性が権力を持つ状況だったことを明らかにすることができた

↓さらに

ムラは婚姻によってお互いを補完する半族的数集団で構成され、有力集団は家長を中心としたヒエラルキーを形成し、各集団は有力集団のヒエラルキーを模倣した墓制をとっている



土井ヶ浜ムラの人々は、半農半漁の「海の民」

このムラのリーダーは、海の交易ルートを確保・維持し、南海産の貴重な貝の腕輪などの産物を入手して、これをムラを構成する家族(世帯共同体)の家長たちに分け与え、各家長はそれをみんなに分けていた。



その恩恵にあずかった見返りに、人々はリーダーに奉仕して、ムラを維持してた



 つまり、土井ヶ浜村では、マスオさんのように、婿入りしてきたお父さんに権限があり、村全体が何らかの形で親戚どうしだったと言うこと



そして土井ヶ浜村の村長さんは、ムラをまとめるために、沖縄付近でしか採れない貝で作ったブレスレットなどの貴重な宝物をみんなに分け与えていた。



b環濠集落

・環濠の意味

 弥生時代の集落はその当初から、墓地が集落の外側に造られており、集落の中心に墓地を営んだ縄文時代とは、生活スタイルも文化も宗教観さえも違っていた。



 全ての集落がそうではないが、

弥生時代の特徴的な集落として、集落の回りを溝で囲む(    )がある。

環濠は外敵からムラを防衛するためのもの

ここでいう外敵とは、外の人はもちろんのこと、外のカミという意味もあった



静岡県登呂遺跡・愛知県朝日遺跡・愛知県本川遺跡などのように、ムラの入り口や境界に、集落を守る鳥として鳥形の木製品を掲げることもあった



周囲に巡る溝の掘削や維持管理



共同体構成員の労働力の集約が必要



環濠はお互いの団結を強め、共同体を維持する役目をも果たした

ムラを守るため、みんなが総出で環濠を掘った



・環濠の変遷

 環濠集落は水田耕作とセットで日本にもたらされた



朝鮮半島南部では日本にもたらされた環濠集落のモデルではないかといわれる遺跡



検丹里遺跡=集落の周りに、環濠のほかに土塁を築いた可能性が指摘

磨製石鏃が多数発見されているなど、防禦的な機能をそなえている



・弥生時代早期の福岡県江辻遺跡=二重に廻った環濠と、その中に松菊里型住居址が11確認されて、朝鮮半島との関係がうかがえる

・最初に弥生早期の水田を確認した福岡県板付遺跡でも環濠集落が確認



当初=玄界灘・有明海沿岸で造営された環濠集落



前期には西日本一帯に広がり、前期後半には、幾重にも溝を巡らせた、大型の環濠集落が形成



弥生時代中期→さらに大型化

長崎県壱岐の原の辻遺跡では、長軸約620メートル、短軸300メートルの楕円形の環濠が巡る

中期後半に環濠はさらに拡大され、三重の溝で囲まれた25ヘクタールの巨大な環濠集落が形成



この遺跡は『魏志』倭人伝に記された壱岐国の都跡だと考えられている



大阪府池上曽根遺跡=前期から続く環濠集落

中期には7ヘクタールほどとなり最盛期を迎える



中心部には祭祀空間がひろがり、大型建物と大型刳り抜き井戸があり、回りに溝を巡らせている。その南には広場があり、石材や蛸壺などの埋納遺構が検出され、手工業や漁業に携わった人々の祭祀の跡が見つかっている。また、広場の東には金属工房もあり、神殿と広場を中心として集住し、環濠で囲まれた、(      )という様相を示している。

愛知県朝日遺跡では、中期に、四重の溝を巡らせ、その間に逆茂木というバリケードをつくり、さらに外に向けて斜めに打ち込んだ杭列を配し、一番内側に土塁を設けている。



かなり厳重な防衛施設

↓背景

戦乱状態ともいえる、混乱した社会状況の中で、必死に弥生都市国家を守ろうとしたもの



佐賀県吉野ヶ里遺跡=前期に3ヘクタールほどの環濠集落が成立して、中期にはその面積は40ヘクタールに拡大

集落の北側には、長方形大型墓の王族墓が形成され、墓道には王族墓にしたがう甕棺墓群が列をなして造営

後期には張り出し部に望楼を設けた堅固な守りの北内郭と南内郭ができ、内郭には大型建物も造営され、銅戈を用いた青銅器祭祀が執り行われていた。



政治・宗教施設の集中がみとめられる



まさにこの部分がクニの中枢だと考えられる

吉野ヶ里遺跡のたたずまいは弥生時代のクニの都を彷彿とさせる



・環濠と都市国家

 環濠集落の思想やイメージは、水稲耕作を受容したときに一緒に受容したもので、縄文時代には比較的希薄であったろう、自他を分ける排他的社会集団の概念と、強い財産所有の概念の現れだろうと思われる



農耕文化を持った人々は、当初は、移住した先などで、身の安全を図るために環濠を形成



農耕文化の発展に伴い、水田耕作は集団による共同作業が必要なため、権能を集中させ、生産力の増強をはかるなかで、各地域の中心的な役割を担う集団の居住集落が、大型の環濠集落を形成するようになった

↓さらに

各地域の有力集団は、余剰を収奪して成長し、お互いの利害の衝突から起こる抗争や戦乱から身を守るため、環濠の防衛機能を充実させ、政治・祭祀・経済・軍事の機能をその中に集中させて、弥生都市国家という体制をとった。



c高地性集落

 中期後半から後期には、このほかに特殊な集落が営まれる。

高地性集落と呼ばれるもので、丘陵上に環濠や柵列で囲んだ、いわゆる山城



近畿地方は、後期に、とくに緊張が高まったらしく、多くの高地性集落が形成



d環濠集落の解消と居館のはじまり

 後期後半になると環濠集落は減少

↓一方

方形の溝や柵で囲われた首長層が居住する、居館が集落の一角に形成



次の古墳時代になると、支配者と被支配者の格差の広がりに伴って、集落から完全に切り離されて建てられる



環濠集落の発展と解消には、社会変化と階層の分化によって、お互いに争い奪い合う対象が変化したことがあげられる

↓当初

外敵の目標は、水や土地や人や収穫物で、その表象としての共同体のカミ、私たちのカミだった

ムラは構成員をあげて外敵と戦い、私たちのカミを守っていた。

↓ところが

前期後半以降、大型の環濠集落が出現



私たちのカミの代表者であった有力者は、王となって、カミの守護者・カミの化身



一般の人々から貢ぎ物を集め、戦士を募り、クニを守るようになった



王は、一般の人々にとって、もはや共に戦う仲間(=人)ではなく、貢ぎ物を要求される相手、時には恐れるべきカミの化身となった

↓そこで

外敵の目標は、王の政治権力やその経済力へと変化し、王の祀るカミを攻撃



農業などを営む一般の人々には、都の権力者が変化しても擁護者がかわるだけで、自分たちが住むムラの暮らしに大きな影響はなくなった



古墳時代に、ヤマト政権が形成されると、弥生時代の王は豪族として、前方後円墳体制というヤマト政権の序列の中に組み込まれ、戦乱はおさまった

諸問題の解決は、ヤマト政権の権威の下で、政治的決着が図られるようになり、軍事的行動は最後の手段となった

↓もはや

環濠によって都を防衛する必要はなく、豪族は、人々から離れたところに居館を造り、自らの館を防衛するようになった。



7,ムラからクニへそして邪馬台国

 弥生時代前期、朝鮮半島から受け入れた農耕文化を、日本型の弥生文化として完成させた→玄界灘・響灘沿岸の人々



弥生文化を、(      )をともなって発信



情報の伝達役→縄文時代から航海技術を培った海洋民

響灘沿岸の人々が弥生文化の伝播に大きくかかわっていると考えている

日本海岸には、縄文時代から航海ルートが形成されていた

↓後の時代にもこのルートが利用

日本海文化ハイウェーと呼んでいる

弥生文化は青森県まで伝えられ、各地で水稲耕作が始まる



 前期末になると、集落の数は爆発的に増大



水田開発や水利のため、お互いが共同して作業を行なうようになり、調和を保たねばならなかった



それぞれのムラは、有機的に結合

時には戦闘行為→磨製石剣や石鏃など武器が発達



ムラ同士の共同作業は、生産体制や分配システムを整え、分業化をすすめた

福岡県今山遺跡では磨製石斧が、福岡県立岩遺跡では石庖丁が(   )に生産され、各ムラに配布されて、開発に伴う石器の需要に応えていた



地域社会が有機的に結合するためには、祭祀を司り、開発の指揮をとり、戦闘を決断し、社会機構を維持するリーダーが必要



リーダーは、やがて階層的序列の上に立つ首長に成長し、島・平野・盆地など自然地形のうえで完結した小地域を単位として、一支(壱岐)・対馬・伊都国・末廬国・奴国などのクニを形成した



 中国後漢時代の班固が記した『漢書』地理誌には、紀元前1世紀頃の日本について、「それ、楽浪の海中に倭人あり、分かれて100余国をなす。歳時を以て来たり献見すという」と伝えている。日本に多くのクニが存在し、中国の威光を借りて他のクニより優位に立とうとしたり、青銅器の原料など、その頃の日本にはない資材を確保しようとする動きがあった。



こうしたクニが西日本各地で見られ、文化や政治体制、クニ同士の連合関係の違いが、各土器形式の分布として、また、墓の形態の地域差として表れる



九州では甕棺墓、近畿では方形周溝墓が造られる



 各首長は、祭祀を司ることによって政治的権力を握っていたので、祭祀のシンボルとして、また、首長の威信材として、青銅器は大変重要



調達のために流通ルートを確保することは、大きな課題



この流通ルートで、青銅器だけではなく、様々な交換材が流通した

各クニは、流通ルートを確保するため関係を深め、首長は、その権益を握り、自国内での権力を強め、墳丘を持つ首長族墓を形成するようになった。

福岡県吉武高木遺跡では、他の地域の墳丘墓に比して、多くの青銅器が出土



各クニ間でも勢力に違いが生じ、階層的関係が生まれている

↓しかし

いまだ首長族墓は集団墓地の中に築かれており、一般の人々から隔絶した、絶対的な存在ではなかった。



 中期には、実用の利器に鉄器が多く使われる

鉄製の農耕具の普及→大規模な土木工事→生産力の増大

青銅器の国産化→各地の祭祀の事情に合わせて、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸を生産



 余剰生産物の蓄積と交換の場→各クニの政治的・祭祀的中心集落に求める



「都」的な大型の環濠集落を形成



権力をさらに集中させた首長が、一般の人々とは違う首長族墓を築造するようになった。



 北部九州→墓に前漢鏡が副葬

紀元前108年、前漢が楽浪郡を設置→それまで朝鮮半島の勢力から青銅器を入手していた北部九州の首長→楽浪郡から前漢の文物を直接入手=より強大な中国王朝との結びつきを求めた



福岡平野 須玖岡本D地点=前漢鏡30面とガラスの( )と呼ばれるドーナツ状の中国の宝器が発見

早良平野 吉武樋渡62号墳

朝倉平野 東小田峯10号墳



各クニに首長墓が築造

糸島平野 周囲30メートルの墓域をもつ三雲1号甕棺=前漢鏡など鏡35面のほか、ガラスの璧が出土→他の首長墓に比べ、墳丘の規模や出土遺物の質・量において突出



各首長をとりまとめていた首長の墓だと思われます。



近畿 大阪府曽根池上遺跡=居住域・水田・墳墓をテリトリーとしてもつ、弥生都市国家と呼べる拠点集落が成立



拠点集落がお互いに結びついた、広域社会を形成



それぞれの拠点集落間には階層的な差が認められず、広域社会は、弥生都市国家の連合体ではなかったかと考えられる

↓一方

大阪府東大阪市瓜生堂遺跡=方形周溝墓と土壙墓の両方が検出

集団内に階層差があったことがうかがえる



大阪府加美遺跡=大型方形周溝墓が発掘→いくつかの共同体をとりまとめた首長の墓



首長が、クニを束ねる有力首長へと成長し、個人のための墳丘墓を築造するようになった



 後期 北部九州→伊都国の井原槍溝遺跡、末廬国の桜馬場遺跡=有力首長の墓が築造され、その存在が明確になる

壱岐の原の辻遺跡は一支国の都であったことがわかっている

『後漢書』東夷伝に、57年、奴国王が楽浪郡に使者を送り、光武帝から、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」の印を授かった

107年には、倭国王帥升が、生口という奴隷160人を献上



これらの記載には、「国」・「王」・「生口」と記されており、各クニには王と一般の人々と、奴隷がいて、王は他の階級の人々とは隔絶した存在として、政治権力をにぎっていたことがうかがえる



 後期後半

吉備→楯築遺跡など、特殊器台をともなう墳丘墓

出雲→四隅突出墳丘墓

東海→前方後方形周溝墓

畿内→大型の前方後円形周溝墓が築造



各地域で独自の墳丘墓が造られる=人々を掌握し、絶対的な権力を握った王が、その権力と、神聖さを誇示するために大きな墓を造った



この時点で、青銅器による共同体祭祀は、王を葬った墳丘墓祭祀へと変化



みんなで共同体のカミを崇めていた祀りから、王自身を絶対的なカミとして崇める祀りへ変化

 少しあとのこと=『魏志』倭人伝には「王が通るときは人々は草むらに隠れた」と記されており、王の絶対性・神聖性の確立がうかがえる。



 それぞれの王

鉄の調達ルートの確保など→自国の権益を増大するために戦う→弥生時代の山城の高地性集落が西日本各地につくられる

范曄が記した『後漢書』東夷伝には、147~188年の間、「倭国大いに乱れ、・・・」とあり、日本は「    」と呼ばれる戦乱の世の中だったことがわかる



この戦乱の後、『魏志』倭人伝に、30のクニの連合体が形成され、邪馬台国がその盟主となったことが記されている

邪馬台国には、税の徴収制度、大人・下戸・生口という身分制度、一大率・大倭という政治組織、法制が存在し、王を中心とした国家とも呼べる社会組織が形成されていた



邪馬台国は、鬼道という宗教的な権威をもって国を治める神権政治を行なっており、卑弥呼は邪馬台国のまつりごとを司るシャーマンだった



邪馬台国を中心とする国家連合体も、絶対的なものではなく、微妙なパワーバランスの上に成り立ってた

そのことは狗奴国との戦争や、卑弥呼の死後の争いによってもわかる



この微妙なパワーバランスを解消し、安定した政権を形成したのが壱与であり、前方後円墳体制と呼ばれる体制をとったヤマト政権だった。



8,卑弥呼の墓は?

 『魏志』倭人伝に記された邪馬台国→3世紀の日本あったクニの一つ

『魏志』倭人伝とは、3世紀末に書かれた中国の正史で、筆者は西晋の陳寿

正式には『三国志』魏書東夷伝倭人条 全30巻

わずか2000文字程度の条文

邪馬台国までの道程

邪馬台国の社会と習俗

魏との外交

などが記されている→当時の日本の状況を知ることができる、貴重な資料であると同時に、現在も解き明かすことができない、謎を秘めた文書



とくに問題となっているのは、邪馬台国の位置

九州説と畿内説

a邪馬台国への道

 『魏志』倭人伝「倭国に着くには帯方郡から船で7000余里で狗邪韓国に着く。そこから1000余里海を渡り対馬国に着く。そこから南に1000余里海を渡り一支国に着く。また海を1000余里渡ると末廬国に着く。東南へ500里陸を行くと伊都国へ着く。東南へ100里行くと奴国に着く。東へ100里行くと不弥国に着く。南へ船で20日で投馬国に着く。南に船で10日、陸を1ヶ月行くと邪馬台国に着く」



中国から邪馬台国までの行き方が書かれている。



この記述の通りに行くと、邪馬台国は九州を越えて太平洋の海上になってしまう。



記述が全く間違いかというと、そうでもなく、記されている狗邪韓国は朝鮮半島南部、対馬国は対馬、一支国は壱岐、末廬国は松浦郡、伊都国は糸島郡、奴国は博多付近と特定できており、そこまでの道程は、ほぼ合っている



不弥国・投馬国・邪馬台国の位置が問題

b九州説では

 九州説では、伊都国までは連続式で読み、伊都国から先は放射式の読み方を採用

↓つまり

伊都国までは、次の国まで船で何日と読み、伊都国から先は、どこの国も、伊都国からどちらの方向に、どう行くという書き方だと解釈

また、邪馬台国の道のりに限って「南に船で10日、陸を1ヶ月行く」と書かれていることから、これを、船ならば10日で、陸を行けば1ヶ月で行くと、2つの行き方が記されていると解釈



邪馬台国は、九州のどこか

c畿内説では

一方、畿内説は、行き方は全て連続式に書かれているが、方向を間違ったと解釈

↓つまり

東へと書くべきところを、南へと書いてしまった

こうすれば、伊都国から東へ奴国、さらに東へ不弥国、投馬国、そして、投馬国から邪馬台国には、「東へ船で10日、さらに陸を1ヶ月行く」ことになり、邪馬台国が畿内周辺の地にあることになる。

d九州説と畿内説の意味

 九州説をとると、邪馬台国は弥生時代の一つのクニになり、ヤマト政権との関係は不明

 畿内説をとると邪馬台国はヤマト政権へと続き、古墳時代の初頭にあたると考えられる。→畿内説にも問題はあるが、近年、九州説は進展がない。



考古学の世界では畿内説が有力。

e私説「卑弥呼の墓」

それでは卑弥呼の墓はどこか?

奈良県桜井市の箸墓古墳と考える研究者が多い→わたしはちょっと違った意見を持っている。

景初3年(239年)、卑弥呼は親魏倭王の称号と印綬、そして銅鏡100枚をもらう。

240年には、魏の使いの難升米が倭にくる。



邪馬台国は中国王朝の権威を借りて、連合国を治めようとした。→卑弥呼は、強大な権力を握っていたとはいえない状況



古墳から出土する鏡のうち、三角縁神獣鏡という鏡に、景初3年の銘のあるものがある。



鏡は一つの鋳型で幾枚も作ることができ、同じ鋳型によって作られた鏡を同笵鏡という小林行雄はこの鏡の分布を調べ、三角縁神獣鏡が33面出土した京都府椿井大塚山古墳を中心として、各地の古墳に鏡が配られたという説を打ち出した。同笵鏡論という。



この論は邪馬台国の場所が畿内にあったという傍証となるだけではなく、前方後円墳体制の証明ともなる重要な理論。



卑弥呼は亡くなったとき、大きな塚に埋められた。

椿井大塚山古墳=大塚→卑弥呼の墓ではないか?

 椿井大塚山古墳は山背国にあり、畿内ではない

 椿井大塚山古墳は4世紀前半の築造→卑弥呼が亡くなった3世紀とは時期があわない



近年、全長130メートルの奈良県天理市黒塚古墳から、椿井大塚山古墳と同じ数の三角縁神獣鏡が出土



石室の盗掘穴からは、3世紀代の庄内式土器が出土して、黒塚古墳は箸墓古墳より古い古墳

↓では黒塚古墳が卑弥呼の墓か?→問題がある

大和古墳群のうち、大王クラスの古墳は、一番上の河岸段丘上に構築されている

黒塚古墳は2番目の段丘上に構築されている

↓しかし

これによって、三角縁神獣鏡が畿内を中心として配布されたと考えてもおかしくないことが証明



卑弥呼の時代、この地域に築造されていた墳墓

ホケノ山古墳

纒向石塚

中山大塚古墳

ホケノ山古墳→箸墓古墳の隣に築造されている古墳で、石囲い木槨と呼ばれる、後の竪穴式石室つながる埋葬構造を持っている→三角縁神獣鏡より古い、画文帯神獣鏡が出土しているが、三角縁神獣鏡は出土してない→卑弥呼以前の王の墓だと考えられる



纒向石塚→周溝しか残ってない→墳形や出土している土器は、ホケノ山古墳より若干古い。

 ↓したがって

わたしは(大塚という名称からも)中山大塚古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えている



中山大塚古墳→黒塚古墳と同じ130メートルで、主体部は盗掘されて残っていない

墳丘から、卑弥呼と同じ時代の土器が出土

大和古墳群の一番上の河岸段丘上に位置している→大王クラスでよい



中山大塚古墳を卑弥呼の墓とすると、比較的近くにある黒塚古墳は、卑弥呼の墓と同じサイズの古墳で、セカンドクラスの人の墓



実質的に政治を行なっていた男弟の墓と考えてはどうか



卑弥呼が亡くなってしばらくは国が乱れる

↓そして

それを統一し、安定した政権を形成したのが壱与

彼女によって前方後円墳体制が完成された

その体制を維持したのが、ヤマト政権だった



壱与こそ箸墓古墳に葬られた人物だったのではないか?



 卑弥呼の邪馬台国は、古代史のロマン

みんながそれぞれ解き明かそうと努力をすることにこそ、ロマンといわれる由縁がある

↓ ところで

三角縁神獣鏡は中国では一面も発見されていない

京都府福知山市広峯15号墳からは、景初4年銘の盤龍鏡が発見



魏の元号には景初4年はない→景初3年の次は、元号が替わって正始元年



中国で作られたとしたら、元号を間違えるようなミスを犯さない



黒塚古墳からの出土状況をみても、中国で作られた画文帯神獣鏡は遺体の頭部付近に置かれて、重要視されているが、三角縁神獣鏡は棺の外に並べられ、明らかにランクが下の扱いを受けている



もし三角縁神獣鏡が中国鏡ならば、格下扱いをうけるだろうか?

三角縁神獣鏡は日本製?



邪馬台国はどこなのだろうか?