2010年11月9日火曜日

日本のはじまり-古墳時代-

(教科書 『日本のはじまり』は和出版のホームページおよび和出版にて販売しています)
Ⅴ 古墳時代


縄文時代・弥生時代→(  )の名前で時代を決定してきた。

↓ところが、

古墳時代は古墳という( )で時代を呼んでいる。

↓これは、

古墳が造られることに大きな意義があると考えているから。



古墳とは、(    )といわれる、統一した葬送儀礼と統一した埋葬形態を伴う、定型化した大型の墳丘をもつ墓のこと。その典型的なものが前方後円墳。

古墳時代とは、3世紀中ごろから7世紀末ごろまでの、古墳が築造された時代のこと。



日本史の区分では、古墳時代のあと、6世紀末から710年の平城遷都までを、飛鳥時代と呼ぶ。

この時期、畿内では前方後円墳は築造されなくなっている。

↓しかし、

古墳の伝統を受け継ぐ、小型の墳墓が造られ続けている。これを、終末期古墳と呼んで、考古学の区分では古墳時代に含めて、その終焉の時期とする。



弥生時代の後期には、各地域の政治勢力は、それぞれ独自の墳丘墓を造って権力を誇示していた。



古墳時代になると、お互い同盟を結んで、政治連合を形成し、その証として古墳祭祀を受け入れ、各首長は、身分秩序に応じて決まった形の古墳を造るようになった。



これが(       )と呼ばれる政治体制で、これによって支えられていた政権がヤマト政権。



定型化した古墳には、いくつかの特徴がある。

墳形は、畿内で生まれた前方後円墳や東海地方で生まれた(     )、そのほか円墳や方墳などがあり、墳丘に石を貼り付ける、(   )という出雲地域で発達した技法をとる。

吉備地域で生まれた特殊器台や、そこから発達した埴輪を並べる。

遺体を納めた内部主体は、長大な竪穴式石室と割竹形木棺を使い、遺体と一緒に鏡を納めるという、九州で始まったやり方を踏襲。

副葬品としては鏡のほかに、玉・剣なども納められている。

墳形や葺き石・埴輪・鏡などをみると、各地域の特徴を合わせて古墳祭祀が作られていることがわかる。



前方後円墳体制とは、絶対的な権力を持った為政者の支配ではなく、各地域の政治勢力の(   )だった



それぞれのカミを持ち寄って連合のカミを創って祀った。



『魏志』倭人伝にも、国同士の同盟の盟主が邪馬台国の卑弥呼であると述べられており、絶対的な権力ではなかったことがうかがえる。



現在、定型化した前方後円墳の最も古いものは、全長278メートルの(    )。



この古墳は突然出現したものではなく、纒向石塚に代表される纒向型前方後円墳(前方後円形墳丘墓という人もいる)、ホケノ山古墳と続き、箸墓古墳に至るまでの系譜がしだいに明らかになってきた。

白石太一郎2005「1古墳時代概説」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

1,古墳出現の背景

古墳が出現する背景には何があったか。



白石太一郎は、(   )の確保や先進文物の入手ルートをめぐって、瀬戸内・畿内と北部九州の間で支配権争いがあり、瀬戸内・畿内の勢力は、支配権を獲得するために連合して力を合わせることが必要で、その連合の維持システムとして古墳が出現したと考えている。



弥生時代中期には鉄器が普及した。



そのための鉄素材は、弁辰と呼ばれた朝鮮半島南部に依存していた。

5世紀の古墳時代中期になっても、弁辰は加耶と呼び方がかわったが、日本は、鉄を鉄鋌というインゴッドの形で輸入し、依然として、朝鮮半島に依存していた。



弥生時代中期、この鉄素材や先進文物の入手に主導的な立場にあったのは、北部九州の国々だった。



瀬戸内沿岸と畿内地方の勢力は、安定的な鉄資源や先進文物の確保のため、連合して「     」を起こし、北部九州から入手ルートの支配権を奪った。この瀬戸内・畿内の政治連合が、邪馬台国を中心とした同盟。



3世紀の半ば過ぎに、邪馬台国を中心とする政治連合の強化と維持のために生み出された、古墳というシステムによって、(     )という秩序的社会が形成された。



一方、東日本には濃尾平野を中心とした連合が形成されており、前方後方形の墳丘墓を築造していた。



この連合こそ、卑弥呼が晩年に争った狗奴国。



争いは邪馬台国が勝利を収め、本来の邪馬台国連合のメンバーは前方後円墳を形成し、新しくヤマト政権に加わった狗奴国メンバーは前方後方墳を形成するようになったと考えられている。

白石太一郎2004「弥生時代から古墳時代へ」『放送大学教材 考古学と歴史』放送大学教育振興会

白石太一郎2005「1古墳時代概説」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

2,ヤマト政権の都とムラ

aヤマト政権の都

奈良県桜井市纒向遺跡は、3世紀の集落遺跡ですが、とても普通のムラとは思えない。



整然と並ぶ建物群や、長大な運河などが発見され、大規模な建築・土木工事が計画的に行われたことがわかっている。

また、北部九州から南関東までの土器が出土しており、各地から人々が集められて、これらの工事に従事していた。

導水施設をもつ祭祀場では、吉備の孤帯文や特殊器台などが出土し、古墳祭祀につながる祭祀も行われてい。

さらに、纒向石塚を代表とする纒向型前方後円墳6基と、その後のホケノ山古墳・箸墓古墳にも隣接している。



したがって、ここが都だったことは疑いない。



それでは、ここが邪馬台国の都か?

寺沢薫は、ヤマト政権と邪馬台国とは別。→纒向遺跡はヤマト政権の都だけれど、邪馬台国の王都ではないと説明。

白石太一郎とは邪馬台国も古墳時代のイメージも違う。

寺沢によると邪馬台国の都→奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡であり、纒向遺跡はヤマト政権の都。



ヤマト政権の女王が卑弥呼で、ヤマト政権は北部九州や瀬戸内の部族的国家の連合だと考えている。



私も、邪馬台国の都は唐古・鍵遺跡で良いと考えている。

卑弥呼は中山大塚古墳に、男弟は黒塚古墳に埋葬された。



卑弥呼の死後、クニが乱れ、纒向石塚やホケノ山古墳の被葬者を祖先とする壱与が、この戦乱を治めて、前方後円墳体制が完成。

↓よって、

纒向遺跡は、箸墓古墳に埋葬された壱与が造営した、ヤマト政権の都だということになる。



邪馬台国や卑弥呼は、まだまだ奥深い問題ですが、纒向遺跡がヤマト政権の都であることは間違いない。



各地から人材を集め、大規模土木工事や古墳祭祀につながる祭祀を行なっている様子は、都の姿そのもの(寺沢薫2005「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻学生社)。



bムラと豪族

・ムラ

一方、

一般のムラでは、弥生時代から基本的な生業のあり方に変化がなかった。=家族のあり方や、それを反映した住居の構成・村落の構造には、大きな変化はない。

↓しかし、

「     」の終結によって、ムラを囲んでいた環濠や土塁などの防衛施設や、高地性集落などの山城が姿を消す。

また、拠点集落で人々と共に暮らしていた首長は、集落から離れたところに(  )を建て、堀などで囲んで防衛するようになる。



首長層は豪族としてヤマト政権の序列の中に組み込まれ、民衆から乖離したことで、ムラを守る施設は必要ではなくなった。



栃木県四斗蒔遺跡の発掘により、豪族は、3世紀代には居館を建て、民衆から離れた存在となったことがわかった。

・豪族居館の様子

5世紀後半の群馬県三ツ寺Ⅰ遺跡は、典型的な豪族居館の跡として知られている。

三ツ寺Ⅰ遺跡は、幅30~40メートルの濠を回らせた、一辺90メートル程の方形の居館。



壕の斜面には葺石が貼られ、猿府川の水が引き込まれていた。壕の内側には、柵で囲まれた、南北2つの区画があり、北側の区画は豪族の住居部分で、南側は祭祀を行なう部分でした。南側部分には、井戸や導水施設・石敷きの池があり、この池からは石製模造品などが出土し、(        )が行われていた。



橋本博文は、豊作を祈る農耕儀礼が行われた可能性を指摘。このように豪族が祭祀を司り、政治を行なう祭政一致の様子がうかがえる。



・ムラの様子

一般の人々の住まいの状況は、(       )といわれた群馬県黒井峯遺跡で知ることができる。



黒井峯遺跡は6世紀中頃、榛名山の噴火によって埋もれてしまった住居の跡。

垣根で囲まれた敷地に、数棟の平地式住居・高床式倉庫・納屋・作業小屋・家畜小屋が検出され、垣根の外に大型の竪穴式住居や畑が営まれていた。

群馬県中筋遺跡は黒井峯遺跡よりも半世紀ほど前に、榛名山の噴火で埋まった村ですが、ここでは祭祀の跡も発見されている。



祭祀には、屋敷の一角で行われた家単位の祭祀と、祭壇状の高まりで行われた村単位の祭祀があった。



他にも四軒の竪穴式住居、二軒の平地式住居、一軒の円形住居、畑、そして古墳が検出され、のちに(  )と呼ばれる世帯共同体的家族単位での生活がうかがえる。このような家族を中心として、農業経営などが行われていた(古庄浩明1999「古代社会構造に関する一考察」『法政考古学』第25号法政考古学会)。

白石太一郎2004「古墳時代の社会と文化」『放送大学教材 考古学と歴史』放送大学教育振興会

橋本博文2005「gムラと豪族居館」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

3,祭祀の世界

弥生時代に行われた、銅矛・銅剣・銅鐸の祭祀は姿を消す。

↓かわって、

鏡・玉・剣をもちいた祭祀が行われることになる。

ヤマト政権の勢力拡大に伴い、地方のカミにかわってヤマト政権のカミが崇められるようになった。



カミは泉・川・山・島・巨石・巨木などの自然物に宿ると考えられていた。

神の鎮座する神南備の山は、信仰の対象で、とくに奈良県三輪山は、「    」として、現在も信仰の対象となっている。



その裾野には箸墓古墳や纒向遺跡群など、政権の中枢が置かれ、ヤマト政権にとっても大切な山であったことがわかる。

この周辺では古墳時代の祭祀遺構が多数発見されている。



福島県建鉾山でも、5世紀代を中心とした鏡・玉・剣・斧・鎌・刀子などの石製模造品を伴う祭祀遺構が多数発見されている。

もともとは本物の鏡・玉・剣を使用していたが、5世紀代になると石や木土、金属で模造品を造り、それをカミに備えるようになった。また、鏡・玉・剣に加えて、農工具やその模造品もカミに供えられた。

福岡県の沖の島は、「     」とも呼ばれ、現在も宗像大社の御神体の島で、女人禁制。

沖の島では、4~9世紀にかけて、多量の銅鏡や祭祀遺物を伴う、岩上祭祀や岩陰祭祀、露天祭祀などの祭祀が行われていた。



大陸や朝鮮半島への重要な交通路上にある沖の島で、海上交通の安全を祈る国家的規模の祭祀が行われていた。



農耕を生活の基盤としている古墳時代には、水に関係する祭祀がとても重要な意味を持っていた。



4~7世紀の三重県城の越遺跡では、3つの井戸から湧き出る水を引いて、合流地点に石敷きの祭場を設け、土器類や刀・剣・臼・紡錘車などの木製品を使った祭祀が行われている。

↓先に記した、

三ツ寺Ⅰ遺跡でも井戸から水を引いて祭祀が行われていた。



水にかかわる祭祀は為政者の秘儀として行われた



五世紀初頭の前方後円墳、三重県松坂市宝塚1号墳からは、厳重な囲いの中に導水施設を持つ祭殿を表した埴輪がみつかってい。

奈良県明日香村酒船石遺跡の亀形石槽は7世紀の大王が執り行なった、水にかかわる祭祀の跡。

このようにヤマト政権において水の祭祀は重要で、ヤマト政権と同盟を結んだ首長は、同盟の盟主である大王が執り行なった祭祀と同じ祭祀を行なう決まりがあったものと思われる。

その内容は不明→先述のように橋本博文は農耕儀礼との関連を指摘している。



国家的な祭祀とは別に、いわゆる民間的な祭祀も行われていた。

先述の中筋遺跡では、家単位の祭祀と村単位の祭祀が発見されている。また、山口県土井ヶ浜南遺跡では、5世紀の水辺の祭祀跡と、同じ場所で、牛頭天王と書かれた、12世紀後半の土器を使用した祭祀跡が検出されている。



河口に近いという遺跡の立地から、5世紀の祭祀は、航海の安全を祈ったという意見もあるが、牛頭天王は疫病除け・厄除けの神様→同じような意味の5世紀の祭祀が、奈良時代の『備後国風土記』にある蘇民将来の説話が牛頭天王のお話に取り込まれていくように、12世紀には牛頭天王の祭祀となったとも考えられる(古庄浩明2000『土井ヶ浜南遺跡Ⅲ』山口県豊北町埋蔵文化財調査報告書 第19集 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム、古庄浩明2000「土井ヶ浜南遺跡の祭祀」『情報 祭祀考古』第18号)。



また、奈良県下永東遺跡でも、古墳時代から奈良時代の水辺の祭祀が発見され、こちらは水神信仰だと考えられている(米川仁一2005「水・川辺の祭祀」『情報 祭祀考古』第26・27合併号)。

白石太一郎2004「古墳時代の社会と文化」『放送大学教材 考古学と歴史』放送大学教育振興会

今尾文昭2005「gカミとカミまつり」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

4,古墳時代の変遷

古墳時代は前期・中期・後期・終末期にわけられる。終末期は飛鳥時代の墓。



なかには前期の前に早期を加えたり、中期を設けないで、前期と後期にわける研究者もいる。

早期を設ける研究者は、定型化した前方後円墳の形成以前に、纒向型前方後円墳が成立し、この時期にヤマト政権が確立していたと考えている。設けない場合は定型化した前方後円墳である箸墓古墳をもって古墳時代とし、それ以前は弥生時代の後期と考えている。



邪馬台国の卑弥呼の政治体制をどのように考えるかも相まって、考古学の中でも興味深い研究課題のひとつ。



中期を設けない研究者は、横穴式石室の成立をもって後期とする。

終末期は飛鳥時代なので、設けない研究者もいる。



ここでも終末期古墳は飛鳥時代で説明する。

a前期

3~4世紀、奈良盆地の大和古墳群、柳本古墳群、佐紀盾列古墳群が中心となる時期。

後円部が高く、前方部が低くて細い前方後円墳は、水田や集落を見渡す丘陵上に立地し、丘陵を削ってその上に土を盛ることによって、見た目を比較的大きく見せている。

墳丘には(  )を貼って、特殊器台や、それが変化した円筒埴輪を並べる。

古墳の主体部は竪穴式石室や粘土槨に、割竹形木棺を納める。割竹形木棺はコウヤマキをくりぬいて作られることが多く、木棺材として特別に選んでいたことが知られている。直径は1メートル、長さは5メートルほどもあり、一人の人を埋葬するには長すぎることから、首長権継承の儀式として使われるためや、丸木船をかたどったという解釈が行われている。

(     )は、木棺にあわせて板状の石を小口積みにし、最後に天井の石をのせたもので、石室を作ってからでは木棺を納めることができないので、途中まで石を積んで、木棺を納め、その後で、持ち送りぎみに石を積んで、蓋をした。

そのあと、他の人を追葬することはできませんので、埋葬された人のためだけの施設。

遺体と一緒に納められた副葬品として銅鏡・玉類・剣・碧玉製腕飾類・鉄製農工具などがあり、滋賀県雪野山古墳などから、頭の上には鏡が置かれ、体の横に剣、胸の部分に玉類と、副葬品の納められた位置が明らかになってきた。木棺内は頭の上と足の下に副葬品を納る空間も用意。奈良県黒塚古墳では画文帯鏡は頭の上、三角縁神獣鏡は木棺の外に立てかけられて検出され、鏡の種類によって扱いが違うこともわかっている。鉄鏃も棺の外に置かれていた。

奈良県島の山古墳では粘土槨の上に弥生時代の貝の腕輪から変化した、石製腕飾類が並べられており、まるで死者の魂を封じ込めているよう。



副葬品を見ると、鏡・玉・剣や石製腕飾類など呪術的な性格が強い遺物が多く、首長が呪術的な力によって人々を納め、(    )の政治を行なっていたことがわかる。



畿内だけではなく、地方にも大きな古墳が存在していることから、



ヤマト政権は汎列島的な首長連合として成り立っていたことが推測。

4世紀、中国の文献に日本は登場しない。→次に登場するのは倭の五王。



邪馬台国から倭の五王のあいだのこの時代を、「謎の4世紀」「      」と呼ぶことがある。

4世紀後半はヤマト盆地北部の佐紀盾列古墳群が優勢となり大型の古墳を形成。

杉井健2005「コラム 雪野山古墳」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

北条芳隆2005「c竪穴式石室と埋葬儀礼」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

寺沢薫2005「bヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

コラム

古墳の墳丘を調査すると、自然の地層の堆積ではみられない、レンズ状の土の堆積が無数に検出されます。よく見ると袋に一杯程度の土が堆積していることがわかります。これは昔の人が、かごや袋に紐をつけ、そこに棒を通して二人で運ぶ、もっこをかついで土を運び、その一杯いっぱいが堆積して層となっているのです。歴史には登場してこない人々が、為政者のために汗を流しながら、土を運んだ跡を、千何百年後の私たちは調査しているかと思うと、彼らのことが愛おしくなってしまいます。

b中期

4世紀末~5世紀は、奈良盆地から大阪平野へ中心地を移し、大阪府の古市古墳群や百舌鳥古墳群が築かれた時期。

もともとヤマト政権は、絶対的な王の支配ではなく、豪族の同盟として成立していたので、佐紀盾列の勢力から河内の勢力へと権力の移動が起こった。



その背景には朝鮮半島の政治的緊張が大きな影響をあたえているといわれている。

・朝鮮半島の緊張

4世紀前半、313年に楽浪郡が高句麗によって、316年に西晋が匈奴によって、相次いで滅ぼされ、朝鮮半島の情勢は不安定になった。



4世紀中葉、346年に百済が馬韓を、356年には新羅が辰韓を統一し、前燕に破れた高句麗は、朝鮮半島へ南下し、百済を圧迫。



百済は、高句麗に対抗するため、東晋に使いを出すとともに、すぐれた技術や文化、鉄資源を求めて伽耶地域に進出していた、倭(     )にも接触。



・百済との同盟

4世紀中葉~後半にかけて、百済と倭は協力して高句麗・新羅と対抗。



366年、ヤマト政権は、斯摩宿禰(しまのすくね)を使者として百済に送り、その結果、伽耶南部とヤマト政権、百済のあいだで軍事同盟が結ばれたらしく、369年、ヤマト政権は百済と結んで、新羅と戦い、任那を支配したと日本書紀に記されている。

任那日本府やヤマト政権の支配に関しては、不明な点が多いが、ヤマト政権が軍事介入を行なっていることは確か。



371年に、百済は、攻めてきた高句麗の故国原王を戦死させ、ヤマト政権と百済が同盟して新羅・高句麗と対抗している様子がみてとれる。



百済の肖古王は、翌年、谷那鉄山の鉄で作った(   )と七子鏡を倭王に献上→倭との同盟をさらに強固にしようとする。



これが、現在、石上神宮に伝わっている七支刀。



・好太王碑文

4世紀末~5世紀初めの朝鮮半島の政治情勢は、好太王碑文にみることができる。



好太王碑は、414年に高句麗の長寿王が、父の好太王の業績を称えて建てた石碑。



碑文には、391年に倭が海を渡り、百済・新羅を破って臣民とし、さらに高句麗と交戦したことが記されている。



日本書紀応神3年(392)の条に、百済との不和から振斯王を廃し、阿花王とたてたとあり、好太王碑文の記述と一致。

399年、倭は百済と結んで新羅に侵入し、翌年、新羅を救援するため、高句麗は軍を派遣して、倭軍を撃退。

また、404年には、漢江をわたって帯方郡に迫った倭を、撃退したことが記されている。



ヤマト政権が、積極的に朝鮮半島に軍事介入し、(   )などの利権の獲得に動いている。

・河内政権の台頭

朝鮮半島への介入のため、河内を中心とする、(       )が、大和盆地を中心とした、呪術的旧勢力に対し、優位に立つことになった。

また、鉄製品の普及で、大阪平野の開発が進行したことも、河内勢力が力をつける大きな要因。



この政権を河内政権と呼ぶ。

↓さらに、

兵庫県神戸市五色塚古墳や福井県六呂瀬山古墳など、海上交通の要所に大型の前方後円墳が築かれ、朝鮮半島との海上交通が重視。

三角板革綴単甲が普及するのもこの時期で、軍備を整えたヤマト政権の首長たちの姿を反映している。



一方、5世紀初頭以降、(     )はしだいに築造されなくなり、呪術的旧勢力の衰えがうかがえる。



・河内政権と古墳

河内政権の首長は大王として、大陸の鉄資源や先進技術・文化を独占して、国内の諸豪族に対し、優越した地位を確保。



日本最大の大仙古墳(伝仁徳陵)や2位の大阪府誉田山古墳(伝応神陵)を初めとして、最大級の大型古墳が河内平野に築造された。



古墳は平野部に造られ、前方後円墳は周濠や陪塚をもち、円筒埴輪のほかに家や刀・盾・蓋・人などの形象埴輪が並べられた。

副葬品にも大きな変化。

大陸の先進技術や文物・文化・制度を受容して、農工具などの鉄製品、乗馬のための(  )、長頸鏃・大刀など鉄製武器、武具類の短甲も皮綴から鋲留になり、小札をとじ合わせた挂甲も副葬されるようになった。

装身具は、金銅製の冠帽・耳飾り・帯金具・沓などが、土器はそれまでの土師器に加え、新しく生産を始めた、(   )が納められる。



前期の呪術的な性格から、政治的・軍事的支配力をもった首長へ変化したことがみてとれる。



九州では、4世紀末の竪穴系横口式石室から発展して、5世紀には、肥後型と北部九州型という独自の横穴式石室が造られる。→畿内に横穴式石室として導入されたのは5世紀中頃以降で、本格的な普及は後期から。

コラム

ヤマトタケル

『古事記』には次のような昔話が載っています。ヤマトタケルは幼い頃はオウスノミコトまたはヤマトオグナと呼ばれ、暴れん坊でした。父の景行はその荒々しさを恐れ、クマソ征伐に送り出します。オウスノミコトは伊勢神宮の叔母のヤマトヒメノの着物をもらって九州へ赴き、クマソタケルの新築祝いの宴会に女装して忍び込み、クマソタケルを殺してしまいました。クマソタケルはオウスノミコトの賢さを讃え、死ぬ間際に「ヤマトタケルと名乗りなさい」と言い残します。

クマソ征伐の帰り、ヤマトタケルは出雲征伐へ向かいます。はじめにイズモタケルと仲良くなり、イズモタケルの刀を木刀とすり替え、そのうえで試合を申し込みます。イズモタケルは木刀とは知らずに戦って殺されてしまうのです。

都に帰るとすぐ、今度は東国征伐の命令が下ります。ヤマトヒメは、今度は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とひとつの袋を与えます。

相模国で、豪族たちが草むらに火をつけ、焼き殺されそうになりますが、天叢雲剣で草を切り払い、袋のなかの火打ち石で向かい火をつけて逃れ、豪族たちをたおします。このときから、天叢雲剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ぶようになります。

さらに、三浦半島から房総半島へ渡ろうとするとき、ヤマトタケルの船は海神の起こす大波のため、動けなくなってしまいます。このとき妻のオトタチバナが入水して、海を沈めてくれました。その後、蝦夷など多くの敵を滅ぼし、帰路につきます。

東国からの帰り、尾張の国の伊吹山で、白イノシシとなった山神に苦しめられ、草薙剣を麓に忘れてしまったヤマトタケルは、やっとの思いで山を下りますが、とうとう伊勢の能煩野(のうぼの)で息を引きとってしまいます。

もちろんヤマトタケルは実在の人物ではありません。このお話は、5世紀頃、ヤマト政権の新興勢力が、強力な軍事力を背景に、武力抗争や懐柔策を行ないながら、各地の旧勢力を平定していく様子をあらわしたものです。倭王武は、雄略に比定されていますが、上表文で、東の55国、西の66国を平らげたと述べており、この頃の様子であろうと思われます。

・倭の五王

ヤマト政権の大王は、中国南朝へ朝貢。



中国皇帝の権威を借りて、国内では倭国王としての立場を強固なものとし、国際的には朝鮮半島における政治的立場を確立しようとした。



「    」

中国に朝貢した讃・珍・済・興・武という倭の五王を、だれに比定するかは意見が分かれるところですが、済は允恭、興は安康、武は雄略にあてる説が有力。

『宋書』倭国伝によると、478年、武は宋に上表文をおくり「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の号を受け、日本国内での地位の確保と朝鮮半島での地位を認めてもらおうとしている。

近年、朝鮮半島で、5世紀後半から6世紀ごろの前方後円墳が発見され、朝鮮半島にもヤマト政権の影響が認められる。



・大陸文化の吸収

ヤマト政権は、大陸と積極的に交流することによって、東アジア世界の一員となっていく。

とくに5世紀ごろに、百済と同盟し、高句麗・新羅と対抗していたヤマト政権は、高句麗の騎馬軍団と戦うためにも、戦術や乗馬だけでなく、これに関連した、鉄器生産・金銅製品生産・武器武具生産のなどの技術や、須恵器生産など、先進の技術を受け入れる必要があった。

日本書紀には、旧楽浪郡・帯方郡の遺民が渡来し、弓月君が養蚕や機織りをつたえ、阿知使主が史部を管理し、王仁が論語千文字を伝えた、などの記載があり、百済や加耶諸国からばかりではく、中国東北部や朝鮮半島全土から、戦乱を逃れて渡来した人々を積極的に受け入れたことが伝えられている。

ヤマト政権は、彼らを品部という専業集団として編成し、各産業に従事させ、いわゆる、殖産興業と富国強兵をはかる。

また、各首長に、金銅製品や甲冑、刀などを分与し、前方後円墳体制の維持に利用。



大阪府陶邑遺跡は、ヤマト政権の須恵器製作工場として発展した窯場の跡。

陶邑製の須恵器は、葬送儀礼や祭祀に使用する宝器として需要が高まり、各地に供給された。

・文字資料と地方統治

日本で書かれた最も古い文章は、古墳時代中期の刀剣や鏡に残された銘文。



文字は、外交や国内行政などで、それを読み書きする必要性があったことを示すと同時に、私たちに当時の状況を直接伝えてくれている。



443年もしくは503年とされる隅田八幡神社の鏡には、「開中費直」と鋳造され、5世紀後半には、後述する臣・連・君・直などの身分を示すカバネが成り立っていたこと示している。

471年銘のある埼玉県稲荷山の鉄剣には、ワカタケル大王の時に杖刀人として使えたことが記され、軍人として雄略に使えていたことがわかる。

また、熊本県江田船山の大刀にも、ワカタケル大王に典曹人として文筆をもって使えたことが記されており、文官だったことがわかる。



これらは、地方豪族が自ら中央とのつながりを明記し、ヤマト政権のなかでの地位を誇示し、地方での権力を維持しようとしたもの。

また、雄略の権威が関東から九州まで及んでいたこともわかる。

さらに、千葉県稲荷台1号墳出土の5世紀半ばの鉄剣には「王賜」の文字が見え、東国の首長にヤマト政権から下賜されたもの。



この剣の銘文が日本で最も古い例。

このように大王を中心として統治体制を整備して、組織化し、(     )へと変容した。



中央政権を構成していたのは、大王を中心とした葛城氏や紀氏などの畿内の大豪族層。



吉備や筑紫、毛野など地方豪族は、各地方で独立性を保持していたが、前方後円墳体制というヤマト朝廷のヒエラルキーに組み込まれ、大王に対して、軍事力・労役を提供し、生産物を貢納していた。



大阪府大阪市法円坂遺跡では五世紀後半の巨大な16棟の倉庫群が検出。

各地方からの貢納を納めた、ヤマト政権の倉庫と考えられている。



岸本直文2005「e巨大古墳群の成立-古市・百舌鳥古墳群」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

都出比呂志1998「巨大古墳の時代」「支配の整備」『NHK人間大学 古代国家の胎動』日本放送出版協会

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

コラム

イザナギ・イザナミ

神話では、日本の国土を作ったのは、イザナギとイザナミというカミサマです。その後、イザナミは火のカミを生んだとき、体を焼かれて死んでしまいます。遺体は出雲国と伯耆国の境に葬られました。イザナギは、死んだ妻に戻ってきてもらうために、黄泉の国へ出かけます。イザナミは「黄泉の国で食事をしてしまったためもう戻れません。しかし、黄泉神と相談してみましょう。その間、私の姿を見ないでください」といいますが、待ちかねたイザナギは、約束を破ってしまいます。イザナミの変わり果てた姿に驚いたイザナギは、たちまち逃げてしまいました。怒ったイザナミは、追っ手を差し向けますが、イザナギは黒髪・櫛・モモの実を投げつけ、追っ手から逃れ、国境までたどりついて、大きな岩で道をふさいでしまいます。イザナミは「これからは、一日1000人を殺します」と宣言し、イザナギは「わたしは一日1500人が生まれるようにする」といいました。三つのものを投げつけて、追っ手から逃れる話は、世界各地に残っています。また、黄泉の国の様子は横穴式石室の様子に似ています。この神話は、外国から伝えられた話を、横穴式石室の内部を思い浮かべながら、日本風にアレンジした話だといわれています。

ちなみに、古墳には須恵器や土師器の食器が多く副葬されており、黄泉の国の食事がお供えされていたことがわかります。5世紀の群馬県舞台古墳では、土で作った団子や木の実のようなものが土師器に作り付けてありました。

c後期

5世紀末~6世紀は古墳時代後期で、雄略のおわり頃から継体、欽明の頃。

このころ、ヤマト政権の朝鮮半島支配は後退し、地方豪族の反乱も起こる。

さらに政権内部の相剋もあり、これらを克服して政権支配の強化が行われていく。

畿内の大王の権力が強化され、大王と地方豪族の服従関係が明確化し、官僚組織の充実がはかられると、古墳は、横穴式石室を取り入れ、個人墓から家族のための墓へと変化。

また、大きな墳丘もしだいに造られなくなってくる。



権力を誇示し、人々を圧倒するためのものだった大型古墳は、その役目を終えはじめる。

・朝鮮半島の状況

475年、高句麗は南下し、百済の漢城を攻め、王をとらえる。



百済は南下して、熊津に都を移す。

南部では、5世紀後半に新羅の圧力で、金官加耶から大加耶に連盟の中心地を移す。



朝鮮半島の動乱により、技術者が日本に渡来し、大王は彼等を領有民「  」として地方に配して、地方支配を強化。



地方豪族の不満が高まった。

↓これに対し、

雄略の頃から地方豪族の押さえ込みが顕著になる。

その代表的な出来事が『日本書紀』に説話として記載。

一つは、「吉備氏の反乱」

もう一つは、「武蔵国造争い」

・吉備氏の反乱

雄略7年(463年)、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が、雄略と自分を、闘鶏の鳥に見立てて戦わせ、雄略に見立てた鳥が勝つと、その鳥を殺してしまった。

このことを聞きつけた雄略が、前津屋一族を誅滅したとを伝えている。

同じ年には、雄略によって妻を奪われたことを知った吉備上道臣田狭が、新羅と結んで反乱をおこしたが失敗したという説話もある。

また、清寧即位前紀には、雄略が崩御し、その后だった吉備の稚媛(わかひめ)が、星川王子を擁して大蔵を占拠するという事件が記載されている。吉備上道(かみつみち)一族は、船40艘を率いて大和に向かい、稚媛を援助しようとするが、稚媛と星川王子は、大蔵を囲まれて焼き殺されてしまう。このときヤマト政権は、逆に吉備氏に介入し、山部を奪う。

説話や伝承をそのまま信じることはできないが、大王墓に匹敵する造山古墳や作山古墳を築造し、「    」とまで称された吉備氏は、この時期を境に弱体化。



・武蔵国造

安閑の時、524年に、武蔵の小杵(おき)は、国造の地位をめぐって対立した、武蔵の笠原使主(かさはらのおみ)を殺そうと、上毛野小熊(かみつけのおくま)と供に謀をした。これに対し、使主は朝廷に訴え、朝廷は小杵を殺し、使主は武蔵南部四処を屯倉として献上したという説話が記されている。この記載は、武蔵国の古墳の変遷と合致しており、東京都宝来山古墳や亀子山古墳、浅間神社古墳、野毛大塚古墳を築造した多摩川沿岸の勢力が、ヤマト政権に対抗したものの破れてしまい、以後は、埼玉県の埼玉古墳群の勢力が優勢になったという状況を反映している。

↓このように

ヤマト政権は地方豪族の反乱を押さえ込みつつ、地方の支配力を強化。



豪族の同盟体制を解体し、権力を大王に集中させ、(    )を推し進めていく過程を示している。



・継体大王

中央集権が進むにつれ、次の政権を決める王位継承で、どの勢力に加担するかは、豪族にとっても死活問題。

大王の位は、それに加担する豪族をも巻き込んで争われ、そのなかで、大伴氏と物部氏が台頭。

武烈には皇子がいない。

↓そこで

大伴金村の尽力で507年、応神の孫で、福井出身の男大迹王(おほどおう)が即位。これが継体。

継体は、近江・越前を基盤とし、朝鮮半島と独自のルートを持って、勢力をのばしたと考えられる。

↓しかし、

その即位を認めない勢力が強かったので、淀川沿いを転々と移動。

↓大王は血縁を重視して世襲されるようになっているが、その政治権力はいまだ絶対的なものではなく、有力豪族のあいだの合議で決められていた。



継体の墓は、大阪府高槻市今城塚古墳。

調査によって、東西62~65メートル、南北約6メートルの広さに、家形埴輪、柵形、蓋形、大刀形、楯形、靱(ゆき)形、武人形、鷹匠(たかしょう)形、力士形、冠帽男子、座像男子、巫女(みこ)形、四足動物(馬形など)、鶏形、水鳥形など合わせて113点以上の埴輪が出土し、葬送などをあらわしている。

・筑紫の磐井の反乱

この間にも朝鮮半島では、高句麗が百済を圧迫し、百済は南下して、伽耶諸国へと勢力を広げる。



伽耶諸国の自立の気運も高まったことで、ヤマト政権の任那における勢力基盤はしだいに失われ、512年には任那4県を、翌年さらに2県を、百済に割譲。

後に、大伴金村は、百済から賄賂をもらったという噂も飛び交い、割譲の責任を取って失脚。



かわって朝鮮半島問題にあたり、勢力を伸ばしたのが蘇我稲目。



朝鮮半島では、さらに新羅も金官加羅へと進出し、金官加羅からの要請を受けたヤマト政権は、527年に新羅に対抗すべく、兵を送ろうとするが、筑紫の磐井が新羅と結んで反乱をおこし、ヤマト政権の軍の渡海を阻んでしまう。



翌年、この反乱は物部麁鹿火によって鎮圧され、磐井の子の葛子は、糟屋屯倉を献上。

物部氏はこの功績によって政権での勢力を伸ばす。



『筑後国風土記』に、527年の反乱と、磐井の墓に石人・石馬が並べられたことが記載。



この記載と符合するのが、九州最大の前方後円墳の(     )で、磐井の墓として、唯一暦年代のわかる古墳。



・仏教公伝part1

朝鮮半島では、532年に新羅が金官加羅を併合したことに対し、倭は積極的に軍事介入するが、562年、新羅は任那を制圧して、ヤマト政権の朝鮮への影響力はおわる。



『日本書紀』には「新羅が任那の官家(出張所)をほろぼす」と書かれている。

↓このことで、

ヤマト政権は、新羅との対立を深める。

↓一方、

百済との関係を強化し、朝鮮半島や中国の文物を摂取しようとする。

538年、百済は都を熊津から泗沘へと移し、高句麗の攻勢に対抗するために倭国に協力を求め、倭国と積極的な外交を展開。

↓このような情勢の中で、

百済は513年、倭に五経博士を上番し、538年、聖明王が教巻と仏像を欽明に伝え、日本に仏教が公伝。

・蘇我氏の台頭

6世紀前半、継体の死後、安閑・宣化と、異母兄弟の欽明との間で王位継承争いが起こる。

→この争いは、蘇我氏の勢力を後ろ盾とした欽明が勝利し、政権内の混乱を収拾。

欽明朝では、権力の集中と、新たな政治体制の整備がなされ、朝鮮半島支配の破綻に対する対応や、地方支配の強化が行われる。

その中心人物が、(    )。

稲目は、2人の娘を欽明の后とし、用明・崇峻・推古の王子・王女の外戚として権力を強め、東漢氏などの渡来系氏族を使って、王権の実務や政務を掌握し、勢力を伸ばした。



和田晴吾2005「j前方後円墳の終演と古墳の終末」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

都出比呂志1998「支配の整備」『NHK人間大学 古代国家の胎動』日本放送出版協会

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

d 氏姓制度

6世紀頃には、支配者層の再編成として氏姓制度を完成。



氏姓制度とは氏(ウジ)という支配者層特有の政治組織と、姓(カバネ)という政治的地位や職位の族姓表象から成り立っている。

氏は擬制的同族集団で、いまでいえば名字のようなもの。

氏を代表する氏上と成員の氏人からなり、氏上は氏神の祭りを司り、内部を統制、代表して交渉ごとに当たる。

氏には賦役や貢納の義務を負う、部民という農民集団と、奴隷の奴とが隷属していた。



姓は支配者層に対する尊称だったようだが、しだいに秩序化されて、大王が与奪できるようになった。身分のようなもの。

臣はヤマト政権の構成豪族で、連は大王の家僚であり、有力地方豪族は君、一般地方豪族は直、首などの称号が与えられた。

ヤマト政権に参画した地方豪族は県主などの地位を認められ、6世紀に国造として整備されていく。

国政はマヘツキミと呼ばれる有力氏族の合議によって審議され、大王に奏上し、大王の決定を宣下していた。



ヤマト政権の祭祀や軍事などの様々な職務は、伴造という氏族によって分担され、それぞれ職掌をもって使える伴や、渡来人技術者集団を品部として組織していた。



一般の農民も部民として組織され、王族に属する名代・子代の部や、豪族に属する部曲があった。豪族の私有地を田荘、ヤマト政権の直轄地を屯倉。



先述の隅田八幡神社の鏡では「開中費直」とあり、姓が成り立っていたこと示している。



また、島根県岡田山1号墳出土の大刀には「額田部臣」の象嵌があることがわかり、6世紀後半には地方においても氏姓制度が浸透している可能性を示している。



国造は、朝鮮半島派遣軍の確保を目的に実施され、磐井の反乱を契機に6世紀を通じて整備された。

地方の小地域をまとめて国という行政単位を設定し、もっとも有力な豪族を(  )にあてた。

国造は、ヤマト政権から任命されると、国造国を支配し、舎人や采女として子女をヤマト政権に出仕させ、部民や屯倉を管理して、物品を貢納し、軍事の負担をした。



地方支配の直接的拠点として置かれた屯倉は、磐井の反乱後に置かれた糟屋屯倉を初見とし、6世紀前半には九州・瀬戸内地域に、7世紀初頭には東国にも設置。



政庁と正倉、水田で構成されており、田令(たつかい)がこれを監督し、周辺の農民を田部丁籍に登録して徭役労働として耕させていた。

国造制や屯倉の設置によって、大王と地方豪族の服従関係が明確化し、氏姓制度によって官僚組織の充実がはかられると、大きな墳丘をもつ古墳は、しだいに造られなくなっていく。

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

5,群集墳と前方後円墳の終わり

a古式群集墳

群集墳は、古式群集墳と新式群集墳の2つに分けられる。



5世紀代~6世紀に、前方後円墳や前方後方墳もその中に含んだ、群集して造られる古墳群がある。



これらは古式群集墳または初期群集墳と呼ぶ。

古式群集墳は、木棺を直に埋葬した直葬であったり、石棺であったりと、いろいろな埋葬方法をとっている。

古式群集墳は、有力氏族が、(       )を編成して、家臣団ともいうべき組織を形成し、その成員である氏人たちが形成した墓であろうと考えられる。

和歌山県岩橋千塚古墳群は、紀氏の同族集団の墓域であり、大阪府高安千塚・平尾山千塚は蘇我氏との関係が指摘されている。

5世紀後半の奈良県橿原市新沢千塚126号墳ではペルシャ製ガラス椀と皿・漆盤・青銅製の鏡・金製の耳飾・金、銀製指輪・金銅製帯金具・金製方形板(冠飾り)など朝鮮半島や中国大陸、はるか中近東との関連をもうかがわせる品物が出土。

b新式群集墳

6世紀に始まる、横穴式石室を伴う小円墳や、横穴墓による群集墳は、新式群集墳と呼ばれたり、単に群集墳と呼ばれる。

群集墳は、墓道を共有する、いくつかの墓のまとまりと、そのまとまりが、いくつか集まってできた墓域から成り立っている。

私は、墓の一つ一つは、群馬県黒井峯遺跡の単位集団と等しく、房戸のような世帯共同体の墓で、墓道を共有する墓のまとまりが、郷戸のような家父長制的世帯共同体、そのまとまりがいくつか集まって成り立つ墓域は、ムラに相当すると考えている(古庄浩明1999「古代社会構造に関する一考察」『法政考古学』第25号法政考古学会)。

5世紀以降の鉄製農工具の普及によって、乾田の本格的開発が進み、生産力が増大すると、世帯共同体単位の有力農民が出現。

群集墳の形成は、古墳の築造者が、有力農民層まで広がったことを意味している。

この変化の背景には、大王と地方豪族の服従関係が明確化し、地方豪族が官僚組織のなかに組み込まれ、独立性を維持していた地方豪族の支配権が弱体化したため、ヤマト政権が、有力農民層を組織化しようとしたものと思われる。群集墳には、大刀や鉄鏃などの武器が副葬され、ヤマト政権や各地の有力氏族が、国内情勢や朝鮮半島の情勢にあわせ、農民層まで含めて武装化し、軍事的編成のなかに組み込もうとしたことがわかる。

c最後の前方後円墳

大王墓として築造された最後の前方後円墳は、6世紀後半の(    )古墳。

全国最大の横穴式石室を誇り、571年に没した欽明の墓だという説が有力。

この古墳が築造された頃から、6~7世紀初頭に独自の前方後円墳文化を花開かせる関東地方など、一部の地域を除いて、各地でも前方後円墳は築造されなくなる。



前方後円墳が造られなくなったことは、前方後円墳体制の終焉を意味し、仏教文化の受容や、官僚制と律令制度による、大王を中心とした中央集権国家の成立など、新しい社会秩序の始まりを意味している。

大王や有力豪族は権威の象徴としての古墳の築造をやめ、かわりに宗教的記念物として寺院の造営に力を注ぐようになった。

和田晴吾2005「j前方後円墳の終演と古墳の終末」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

都出比呂志1998「前方後円墳の終焉」『NHK人間大学 古代国家の胎動』日本放送出版協会

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

白石太一郎2001「古墳時代から飛鳥時代へ」『考古学と歴史』放送大学教育振興会

前園実知雄2005「藤ノ木古墳」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

d大型古墳の終わり

見瀬丸山古墳以降、支配者層は、後述する藤ノ木古墳などの、円墳や方墳を築造。



関東でも七世紀前半には、大型方墳の千葉県竜角寺岩屋古墳や大型円墳の栃木県壬生車塚古墳が築造されるが、(   )の始まりと対応して前方後円墳は造られなくなる。

↓この時期、

前方後円墳体制と決別して、大王を中心とする律令制古代国家を形成する過程。

古墳は、権威を表すものから、身分を表すものへと変化。

和田晴吾2005「j前方後円墳の終演と古墳の終末」『ドイツ展記念概説 日本の考古学』下巻 学生社

都出比呂志1998「前方後円墳の終焉」『NHK人間大学 古代国家の胎動』日本放送出版協会

倉本一宏2001「大王と地方豪族」『古代日本の歴史』放送大学教育振興会

白石太一郎2001「古墳時代から飛鳥時代へ」『考古学と歴史』放送大学教育振興会