考古学の世界
-考古学の歴史と方法-
古庄浩明
考古学とは何でしょう?
-考古学の定義-
考古学は
①人類が残した過去の痕跡(遺物・遺構・遺跡)を発見し、
②これらを科学的に研究し、
③想像力を働かせて、過去の(社会や歴史)を復元する学問です。
そして、その目的と使命は、
復元した過去の社会や歴史を人類の知的財産として、教育や普及活動を通して私たちの現代社会に還元することです。
また、わたしたちに人類の過去を教えてくれた、文化遺産である遺跡・遺構・遺物の重要性を皆さんに知らせ、これらを後生の人びとに残すために、破壊や損傷・劣化から守ることにも努めなければなりません。→過去の人類の残した文化遺産は作ることができない
↓
絶対数が決まっている
したがって
私は考古学の基礎を大きく4つと考えています。
1,分布調査を行って資料の所在を明らかにし、それを収集するため発掘調査を行う
2,考古学理論を駆使して過去の社会や歴史を復元する
3,復元した過去の社会や歴史を現代社会へ還元するための(教育普及)活動
4,後生に文化財を伝えるための(修復保存)活動・有効利用
です。
考古学の方法は
1,資料の収集=分布調査・発掘調査・整理作業→分析→報告書作成
2,資料を使った研究→論文発表・刊行物
3,過去の社会・歴史の復元→論文発表・出版物
という大まかな流れをたどります。
さらに、
4,教育・普及→論文 博物館などの展示 講演 出版物など
によって社会への還元が行われます。
また、
文化遺産の修復・保護に努め、
1,資料の調査
2,保存・修復方法の検討
3,保存・修復
4,保護・維持
5,教育・普及・有効利用
を、文化財保存科学者たちと協力して行わなければなりません。
考古学の位置
現在、考古学は
人類学の一分野とする考え方と、
歴史学の一分野とする考え方があります。
人類学とは、「人類とは何か」について研究する学問で、人類学では人類の一般的法則を求め、動物としての人類と、人類の特徴である「文化」について研究するものです。
人類学は、
動物としての人類の肉体的特徴を研究する(形質人類学)と、
人類だけがもつ「文化」について研究する文化人類学、
過去の人類がもった「文化」について研究する考古学
に分類されています。
一方、
・歴史学とは、「人類の歴史」について研究する学問で、それぞれの国や地域の歴史を求めようとし、
文献資料から歴史を復元する(文献史学)と
物質から歴史を復元する考古学
に分類されます。
ヨーロッパ・日本では、考古学は主に歴史学に、
フランス・アメリカでは考古学は人類学に 分類されてきました。
イギリスや日本では
現代の私たちの祖先や民族・国や地域の成り立ちを探求するという目的で、考古学は歴史学に分類されました。
フランスでは
先史考古学という分野が盛んで、対象の考古学資料が現代の人類に直接結びつくとは考えられていません。
アメリカでは、
白人の歴史は200年余りしかなく、それ以前はネーティブ・アメリカンの世界です。
↓
したがって考古学を「歴史」ではなく、「人類学」の分野に位置づけることが一般的だったのです。
考古学が過去の人類の社会と、その変化を探求しようとすると、そこには時間軸が介在せざるおえません。
↓したがって、
私は、考古学を歴史学の一分野と位置づけています。
考古学の歴史
ライオンのように鋭い牙も、熊のような爪も、チーターのようなスピードもない人類にとって、過去のことを振り返り、失敗を繰り返さないようにしたり、成功した行為や新しい工夫を後生に伝達することによって、人類は生存し繁栄してきました。
↓よって
人類は、生まれながらにして祖先や過去の人びとの行為に「昔話」や「伝説」「神話」という形で関心や興味を持ち、そこに教訓や自らの起源を見いだす動物だったといえます。
↓
人類は無意識のうちに歴史を習得し利用している動物です。
↓このように
人類にとって歴史は(生存戦略)の一つだったのです
考古学の起源
歴史が人類の生存戦略であったので、考古学の起源も人類が生まれた遙か昔にさかのぼると推測することもできます。
昔の人びとの遺産として考古学が意識され始めたのは14世紀頃からです。
↓しかし、
その初源は神話的なものであり、およそ科学的な思考とはかけ離れてものでした。
14世紀~17世紀 (ルネッサンス)期 古典復古→ギリシャ・ローマの遺物の収集・遺跡の調査
イギリス ストーンヘッジなどのモニュメントが注目された
アメリカ大陸 ティオティワカンの調査
ティオティワカン メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡
18世紀 科学的調査の芽生え
イタリア ポンペイの調査が開始→科学的な調査は19世紀から
1765 ペルー ファカ・デ・タンタルックの遺跡で層位的な調査が初めて行われた。
アメリカ (トマス・ジェファーソン)(第三代大統領) ミシシッピー川沿岸の墳丘墓はネーティブアメリカンの祖先ではなく、神話上の白人のマウンド・ビルダーが造ったものと想定発掘して証拠を収集して証明しようとした
↓
1784 ヴァージニア所領地の墳丘墓の調査=トレンチを層位的に調査した。
ネーティブアメリカンの祖先が造ったことを否定できなかった
イギリス リチャード・コルト・ホア 墳墓を形状で分類→型式分類のはじめ
19世紀半ば 近代考古学の始まり
1669年、、デンマークのニコラウス・ステノ→「地層は下の層ほど古く、上の層ほど新しい」という地層累重の法則発表
1841 ジャック・プシェ・ドゥ・ペルテ→フランス ソムン川の石切場で、礫石器と絶滅動物の骨が共伴していることを発表
↓
洪水伝説以前に人類が生存していたと主張
↓
人類の始まりは聖書で書かれたよりもはるかに古いことを証明=聖書とは別の人類の歴史が必要となった。
1859 チャールズ・ダーウィン『種の起源』 生物学的進化論
自然淘汰 適者生存
周囲の環境に適応した個体が生き残り、有利な特性を子孫に伝えることによって、徐々に進化して新しい種が生まれる
↓
文字のない時代、考古学の技術を駆使して人類の起源を探る
社会進化論
唯物史観 に影響を与える
物質文化の進化
↓
オスカー・モンテリウス(スウェーデン) 型式学
1836 C.J.トムセン デンマーク・コペンハーゲン国立博物館のガイドブックで紹介
博物館資料をその素材により石器時代・(青銅器時代)・鉄器時代に分類→三時代区分法
後に石器時代は磨いた石器を用いる新石器時代と打ち欠いただけの磨かない石器を使う旧石器時代に分ける
↓
遺物を研究することによって、相対的な年代を明らかにできることを明らかにした。
三時代区分法が通用しない地域もある
青銅器を使用しなかったサハラ砂漠以南
鉄器を持たなかったアメリカ大陸
↓しかし
三時代区分法の概念は文化の特徴をあらわしたり、進化の過程を比較するため、また、お互いの時代を比較するためにも必要
「人類の起源」
「進化論」 物質(遺跡・遺物・遺構)を科学的に研究し、人間の歴史を探
「三時代区分法」 るという考古学の枠組みが完成する
民族学の発展と考古学への応用
大航海時代→西洋文化とは違う様々な文化・民族が紹介される
素朴な民族・社会の研究→素朴な社会で用いられる道具と類似した遺物が先史時代の遺跡 から出土→考古学にとって民族学が有用
↓同時に
西洋は素朴な社会から高度な社会へ発展したと考えられる
↓
進化論の影響で人類の発達過程を検討=社会進化論
1877 ルイス・ヘンリー・モーガン1877『古代社会』
人類は 野蛮(原始的狩猟)→未開(単純農業)→文明(高度な社会)へと進化する
↓
カール・マルクス 1858『先資本主義経済の形成』 『資本論』
フリードリッヒ・エンゲルス 1884『家族私有財産および国家の起源』
エジプト・メソポタミア・新大陸での古代文明の発見と調査
聖書世界と聖書にない新たな古代文明の解明
エジプト
1798~1800ナポレオンエジプト遠征(ロゼッタ・ストーン)の発見 ↓
1882 シャンポリオン ロゼッタ・ストーンの解読
メソポタミア
フランス隊(ポール・エミール・ボッタ)とイギリス隊(オースティン・ヘンリー・レイヤー)の資料収集争い=美術品の収集
↓
1850ヘンリー・ローリンソンによるくさび形文字の解読
ホメロス『イリアッド』の研究
トロイ戦争 ↓
1870~1880年代 ハインリッヒ・シュリーマン (トロイ)の発掘
ミケーネ文明の発見
調査技術の進展
19世紀後半~20世紀初頭
ピット・リヴァース将軍 イングランドの墳墓における軍隊的な組織・正確な方法論と調査の実践
ウイリアム・フリンダース・ペトリー エジプト・パレスティナでの詳細な調査
↓ 浜田耕作の師
1960年代まで「編年と歴史の時代」
編年体系の確立と各地域の歴史の確立
1920エジプト・ツタンカーメン王墓の発掘
20世紀初頭
ゴードン・チャイルド 資料の分類と整理から特定集団の文化と起源に迫ろうとした
↓
日本考古学に影響
生態学的アプローチ
人類学者 ジュリアン・スチュワード
文化は他の文化との影響し合うだけではなく、環境とも相互に作用しあう=環境への適応
↓
ゴードン・ウイリー ペルー ヴィル渓谷で環境と集落パターンを照合
プロセス考古学のはじめ
第二次世界大戦後
自然科学を考古学へ応用する
↓
放射性炭素年代測定法など
花粉分析
DNA分析
1960年代 ニューアーケオロジーの出現 (現在はプロセス考古学と呼ばれる)
従来の考古学理論に対する反論
↓主な反論
従来の考古学では「過去に何が起きたか」を知ろうとするだけで、「なぜそれが起きたか」を説明しなかった。また、過去を復元する方法が経験的で客観性を欠いていた。
↓
1,過去の復元ではなく、過去の社会や変化を説明しなければならない
2,説明は経験的妥当性によって説明するのではなく、定量的・客観的証拠をもって検証し説明する
3,資料をつなぎ合わせて帰納法的に結論を導き出すのではなく、仮説をたてモデルを構築して演繹的に説明し、一般化する
ルイス・ビンフォード1968『考古学に於ける新しい視点』
一般法則性をもとめる
考古学はいつの時代を扱うのでしょうか?
-年代の決定法-
考古学は人類の過去を物質から考証する学問
↓
対象年代・・・人類の発生からすべての過去→理論上は昨日も含まれる
↓
もっとも考古学が活躍する時代は文字資料が残されていない原始・古代
中世考古学・近世・近代・現代考古学もある
鎌倉→鎧の研究 やぐらの研究
江戸時代→大名屋敷の調査・寛永寺の調査
近代→新橋駅の調査
現代→戦跡考古学など
いつ when
どこで where
だれが who
何を what これらを知ることが重要
なぜ why
どのようにして how
どうした
↓
時期を決めることが基礎作業となる=同じ時期のものをみつけだす
↓
前の時期のもの、次の時期のものを見つけ出し、それがどのように変化するかを調べる
年代はどのように決めるか
↓
相対的年代決定法 層位学・型式学
出土した遺跡や遺物の相互の関係を検討して年代を決める→考古学的方法
絶対年代決定法 理化学的年代決定・文字資料
自然科学的分析で年代を決める
紀年名など文字に残された資料から年代を決める
考古学に於ける層位学とは何でしょうか?
地層累中の法則
1785 スコットランドの地質学者ジェームス・ハットン『地球論』→地層累中の法則
↓
「下の層ほど古く、上の層ほど新しい」
↓
「下の層に含まれる遺物は古く、上の層に含まれる遺物ほど新しい」
=考古学的な相対的編年を作るもととなる
↓さらに
同じ層から出土した遺物は同じ時期のもの=共伴関係 一括遺物
共伴=放棄・破棄された時期が同じ・・・使用された時期が同じ・・利用状況
一括遺物=ひとまとまりとして扱うことができる遺物・・出土の状況
↓
自然科学的方法を利用するにも必要な情報
地層同定の法則
地層同定の法則=1816年、イギリスの土木技師ウィリアム・スミスが、著書『Strata Identified by Organized Fossils』で主張した。同時期に堆積した地層にはそれに特有な化石が含まれ、その化石によって地層の時間的位置や、離れた地域間において同一時期に堆積した地層を同定できるという法則。地層の年代を決定する化石を「標準化石(示準化石)」とよぶ。 ↓
考古学では標準化石のかわりに土器などの遺物をもちいる。
↓
同じ遺物が含まれた地層や遺構は同一時期に形成された
発掘調査は層位を明らかにし、遺物・遺構の相対的先後関係や共伴関係を証明できるように行われる。
「鍵層」
火山の噴火や洪水などによって形成された地層は時期が特定できる場合がある
↓
この地層を「鍵層」と呼び、時期判断する重要な層となる
火山灰は含有されるガラスの種類や鉱物の組成により資料を同定できる→示標テフラ
AT AMS年代 24~25000年前に鹿児島県姶良カルデラが噴火し、火山灰を噴出した。この火山灰が全国的に降下し、朝鮮半島でも見つかっているこれをAT(姶良丹沢火山灰)と呼び、後期旧石器の鍵層として利用している
宝永の火山灰 宝永4年11月23日(1707年12月16日)富士山が噴火した。大量の黒色の火山灰を広範囲に降らせ、現在もその痕跡を見ることができる。
↓
江戸時代の発掘調査の鍵層
考古学に於ける層位学とは
↓
遺物や遺構の時期を確定し、他の遺跡と比較するだけではなく、遺構の成り立ち(遺構構造論)を明確にするための重要な理論
遺跡で必要な層位とは
1.遺跡全体の層位柱状図=遺跡の標準的層位
↓
他の遺跡との比較
2.遺跡とその環境を含む広範囲な層位
↓
遺跡の成立と消滅を知るため
3.遺構ごとの層位
↓
遺構の形成と消滅・遺構間の関係を知るため
注意 層位を乱すは人間だけではなく動物や昆虫・植物・細菌・水・浸食などがある ↓
注意が必要
型式学とは何でしょうか?
形式学とは遺物や遺構など考古資料の分類方法
↓
人間は社会的動物で、集団を形成して生活している=人間という動物の「生存戦略」
↓
人間が形成している集団では、お互い共通の意識のもと、礼儀作法や、ものの作り方・道具の使用・お祭り・葬送儀礼など共通の行動様式をとる。
↓
個人はその所属集団に意識的に、もしくは無意識に規制されて行動する
↓
この共通の行動様式を文化と呼ぶ。
従って制作され使用された考古学資料は、それを制作し、使用した人間の所属する集団の行動様式が反映されており、同じ文化を持つ人間は、類似性のある物質を作成する
↓
考古学者は考古資料を分類し、類似性を持つ遺物を一まとめにするとによって、同じ文化を持つ集団を見つけだそうとしている。
よって考古学では考古資料を分類することが大変重要な作業となる。
モノの製作者はある特徴を思い描き(モデル)、それを具現化しようとしてそれぞれの個体を製作した→モデルは社会によって規制されている
↓
その特徴(モデル)のうち、研究者が注目した特徴を抽出して構成した概念=型式
↓
この型式を一定の原理に従って整理配列することにより分類体系が形成される
↓
型式を一定の原理に従って整理配列する研究=『型式学』
・モデルは製作者が所属する集団の規範や行動様式(祭り・礼儀作法・物作り・使い方・排便方式など)に規制される
・モデルの具現化は製作者の個人的な癖などの条件によって左右される→基本的に集団 の行動様式から逸脱しない
↓
資料の類似性は特定の集団の特徴(モデル)であり、これを型式として人間の行動や精神文化を復元することができる
考古資料を分類するための尺度は「機能」と「空間」と「時間」。
・機能
「形式(form)」
機能や用途に基づく分類を「形式(form)」とよぶ。
煮炊きをする鍋、食べ物を入れる皿、貯蔵用の壺、液体を注ぐ水差し、大量に貯蔵するための大甕などに分類すること。→あとで説明する「型式」との違いを明確にするために、器種と呼ぶこともある。
・空間
「分布」
同一形式、同一時期の遺物の空間的広がりを「分布」とよぶ。
↓
同一形式の遺物の広がりは、それを使用する同じ行動形式を持つ人々の広がりを示す。
*分布は一般に、中心地域から徐々に粗になる傾向を示し、中心地域と周辺地域をあらわすことになる。
移住などによって人々が動きを示すと、分布の時間的変化にその動きが反映される。
ただし、各形式が同一の分布範囲を示すとは限らず、各遺物の分布は複雑に交錯してる。
「スタイル」
同一形式、同一時期においても中心部と周辺部、もしくは周辺部同士では若干の形の違いを細分としてとらえられることがある。これを「型式(type)」と呼ぶが、後述する時間的変化の「型式(type)」と用語が同じで、混同しやすいのが現状。
↓
したがって、私はこれを「スタイル(style)」と呼ぶことをことを提唱したい。
現在、styleは「様式」と訳されているが、ここでいうstyleは日本語の様式ではなく、あくまでも「スタイル」と訳したい。
定義=「スタイルとは、同一時期の同一形式に属する物質の形式的特徴による細分で、地域差によるもの」
・時間
「型式(type)」
時間軸を形成するもの=「型式(type)」
型式とは「同一地域、同一形式に属する物質の形式的特徴による細分で、時間によって変化するもの」
「組列(seriese)」
考古学遺物から時間的変化をとらえる方法はスウェーデンのモンテリウスによって提唱された。
チャールズ・ダーウィンの生物進化論にヒントを得て、古典的型式学を提唱
モンテリウスは、
1,人為物も生物学と同じように区別できる。
2,生物の進化と同じように人為物も系統的に進化する
という法則を提唱し、人為物の系統的進化を「組列(seriese)」とよんだ。つまり、組列とは人為物の系統的な流れ。
この組列(seriese)の変化のなかに型式を設定する。
組列は「型式変化」や「形態変化」と呼ばれることもある。
ところで、組列はどちらからどちらへ変化するのか、にわかには分からない場合がある。
↓
組列の方向を決める方法が必要
↓
組列の方向とは、どちらが古くて、どちらが新しいかを決めること=「時間の経過する方向」
組列の方向は次の5つの方法
・層位学的方法
「地層累重の法則」→下の層から出土した遺物は古く、上の層から出土した遺物は新しい。
・痕跡器官(ルジメント)
痕跡器官とは、生物学の「退化して本来の機能を果たさなくなった器官で、わずかに形だけがそれとわかるように残っているもの」のことで、尾てい骨や男性の乳首など。また、背広の袖のボタンや胸のボタンホールなど、人為物にもしばしば見ることができる。
↓
考古学の痕跡器官は、時間が経過するとともに、機能的なものから機能を持たない単なる飾りへ変化→これを見つけることによって組列の方向をきめる。
・流行(fashion)
現代でも、服装など、多くの人為物に見られるように、人々は時として機能とは関係なく、そのときの趣向によって人為物の形を変化させる。これを「流行(fashion)」と呼ぶ。この流行をとらえることによって組列の方向を決定する。
・セリエ-ション
モノは古いモノから新しいモノへ徐々に置き換わっていく=セリエ-ション
↓
数量的にあらわすことができる→流行状態(popularity)
・共伴関係
発掘調査をしていると、住居址や古墳の主体部などの遺構の中で、明らかに同一時期に使用されたと推測できる、複数の遺物が発見される場合がある。これらの遺物を一括遺物と呼び、「これらは供伴している」という。組列のわかる標準遺物と供伴している遺物を見つけ出すことによって、いままで分からなかった組列を見つけ出すこともできる。また、一括遺物は、当時の人々が、一時期に何を使っていたかを知ることができ、彼らの生活を考える上でも重要。
・交差年代法(closs dating)
ある文化圏の遺物が、他の文化圏から出土することがある。これは人々の交流をあらわすとともに、お互いの文化圏がほぼ同一の時期に存在していたことを示す場合がある。これによって、お互いの文化圏を比較することができる。これを交差年代法(closs dating)と呼ぶ。
↓
実際に組列を決定するときには、これらの方法を組み合わせて決定する。
・文化
「様式(yoshiki)」
「様式(yoshiki)」は日本独自の考え方で、いままで、styleと訳されていが、英語のstyleとは違う意味を持っている。したがって、「yoshiki」と書く方がよいと考える。様式(yoshiki)とは「同一地域、同一時期に行われた一群の形式のまとまり」のこと。
↓
同一地域で同一時代に形成された形式のまとまり(様式)は、お互いに補い合って人々の生活の要求を満たしており、これを共有する人々を「文化的集団」と呼ぶことができる。→様式とは、ある文化を持った集団を特定しようとしている。
このように、形式学とは、考古遺物や遺構を分類して考察する上で、最も重要な理論。
分類配列の基本
機能・時間・空間
機能による分類→形式
時間による分類→型式
空間による分類→スタイル
文化の特定→様式
理化学的年代決定法とは何でしょうか?
考古学ではいろいろな年代の測定法をもちいるが、ここではおもな科学的年代測定法を紹介する。
放射性炭素年代測定法
植物は光合成を行ない、体内に炭素14を取り込んでいる。
↓
取り込まれた炭素14は放射壊変して窒素14へと変化
↓
植物が生きて光合成をしている間は、体内での炭素14の濃度(炭素13や炭素12に対する炭素14の存在比)は一定に保たれる
また、その植物を食べた動物の炭素14も一定に保たれる
↓ところが
動植物が死んでしまう→新たな供給がない
↓
炭素14は時間とともに窒素14へと変化し、しだいに減少
その半減期は(5730)年
↓よって
炭素14の減少量を測定すれば、試料が遺体となった年代を推定することができる
大気中の炭素14の含有率が常に一定ならば、未補正のままの年代を使うことがでる
↓しかし
含有率は年代によって変動している
測定された年代は、本当の年代より新しい数値が出てしまう
↓そこで
年輪年代測定法と比較して、炭素14の年代の誤差を修正→較正
また、加速器を使うことによって微量の試料で年代が測定できるようになった
↓
この方法を加速器質量分析(AMS)法と呼ぶ
年輪年代測定法
木の年輪は一年に1つできる
年輪のでき方→その年の気候によって変わり、気候変動によって成長のパターンが決まっている
↓
調べたい木材の年輪の数を数え、成長のパターンを、既知の資料から作られたパターンと比較
↓
その木がいつ頃伐採されたかを知ることができる。
磁気年代測定法
地球の地磁気は年代によって変化
↓
炉や窯址など、焼けた土は過去の地磁気の方向を記録
↓
その方向を調べ、地磁気の永年変化図と比較することで年代を知る
考古学における分布論って何でしょう?
分布論=遺跡・遺構・遺物もしくはその組み合わせの空間的広がりから物資の流通・文化の交流・伝播を考察する
↓
自然科学的分析・空間情報科学的手法の支援
↓ ↓
産地同定など 三次元計測
分布→遺跡内の分布=ミクロ 遺物遺構の機能を知る・個人の作業の特定など
広域な分布=マクロ 伝播論 文化論
ミクロの研究
ルイス・ビンフォード
1969・1973 アラスカのヌナミュート・エスキモーを研究し、狩猟採集民がどのように道具や骨を破棄するかを観察=民族考古学
↓
炉の周りに座って座ったところの近くに小破片が飛び散る「ドロップ・ゾーン」
大きな骨などは前と後ろに捨てる「トス・ゾーン」
↓
フランス・15000年前の旧石器時代のパンスヴァン遺跡の理解に応用
山口県土井ヶ浜遺跡の研究
一つのムラはどのようにしてまとまっていたのでしょうか。
ムラの構成を考える上で土井ヶ浜遺跡は大変重要な遺跡です。弥生時代前期の墓地である土井ヶ浜遺跡は、貝のカルシウム分の多い海岸の砂地に造られていたため、日本では珍しく、数多くの人骨が、非常に良い保存状態で出土しています。この墓地に葬られた人々の多くは抜歯をしています。抜歯は、その人の出自や所属集団などによって、抜く歯の場所が違います。この抜歯の研究により、土井ヶ浜遺跡を形成したムラの人々は、母系制の社会で、男女同権か男性が権力を持つ状況だったことを明らかにすることができました。(古庄浩明2001「土井ヶ浜遺跡の社会構造」『山口考古』第21号山口県考古学会・古庄浩明2005「土井ヶ浜遺跡とその社会」『季刊考古学』第92号雄山閣)。
さらに、ムラは婚姻によってお互いを補完する半族的数集団で構成され、有力集団は家長を中心としたヒエラルキーを形成し、各集団は有力集団のヒエラルキーを模倣した墓制をとっていることがわかりました。土井ヶ浜ムラの人々は、半農半漁の「海の民」だと思われます。このムラのリーダーは、海の交易ルートを確保・維持し、南海産の貴重な貝の腕輪などの産物を入手して、これをムラを構成する家族(世帯共同体)の家長たちに分け与え、各家長はそれをみんなに分けていました。その恩恵にあずかった見返りに、人々はリーダーに奉仕して、ムラを維持してたのです(古庄浩明2007「土井ヶ浜遺跡の祭祀と社会」『原始・古代日本の祭祀』同成社)。
マクロの研究
小林行雄 同笵鏡論
GISを活用した分析→三次元デジタル地図の活用